夜を揺らす

亜咲加奈

第1話 夜を揺らす~【三題噺 #128】「旅」「支」「手」

 休憩はいつも海が見える公園で取る。潮の香り、心地よい湿り気を含んだ風、雲一つない薄水色の青空。しかしもうすぐ日が暮れる。つよしは両ポケットに手を入れながらゆっくりと歩を運ぶ。このところ考えるのは一人の男性だった。取引先の、清潔でよく手入れされたスーツとワイシャツに身を包んだ美しい男。きっと同い年くらいだろうか。大型トラックを運転する剛にとっては、まるで接点のない人だった。そんな美形が自分たちの会社に現れたのは、業績が傾き始めた昨年末のことだった。剛は彼と直接言葉を交わしたことはない。彼は一人ではなかった。上司とおぼしき人物と二人で、剛の会社の社長と長いこと話し込んでいた。会社の事務員が訳知り顔で剛の同僚と噂話に興じている。

「うちの会社、吸収合併されるみたいよ」

「だからあの二人が来てたわけか」

「すごいイケメンが来てるじゃない? ああいう人がいる会社なら、あたし、転職してもいいかも」

「よせよ。おまえ、もう、彼氏いるじゃん」

 剛は女性と交際したこともあるが、長続きしない。剛には通院が欠かせない父親がいる。医療費も高額だ。トラック運転手として現在の勤め先は三つ目になるが、給料だけでは足りず、ゲイ向け動画の撮影で金を稼いだこともある。

 剛にとって、男の性欲処理に自分の肉体が使われたという経験は、どんな外科手術をもってしても切除できないしこりとなっていた。もう撮影からは足を洗ったが、現在でもネットの海には自分が出演した動画が流れている。顔を隠し、声も変えているが、見る人が見れば剛だと分かってしまう。転職を重ねたのはそのためだ。直接指摘した人間は幸いにして皆無だが、これからも現れないという保証は誰にもできない。何度も訪れるあの美しい男が気になる。

「同じにおいがする」

 剛は海に向かってつぶやいた。彼の意識は会社と撮影現場を通り過ぎてようやく海が見える公園に戻ってきたのだった。

「旅にでも出ようかな」

 唐突な言葉が剛の口から漏れた。

「そうだ、旅に出よう。俺のことを誰も知らねえ所へ」

 言って、自嘲の色を顔ににじませる。

「できるわけねえか。親父を一人にしちゃおけねえもんな」

 ポケットから手を出して、トラックへ戻ろうとした時、車がひっきりなしに通る道路を渡るスーツの男が目に入った。

 スーツの男はこちらへ向かって歩いてくる。顔を上げて、毅然として、しかしその顔は遠目にも強張って青かった。彼が、勤め先に上司と共に訪れるあの美しい男と同一人物であると剛が気づくのに、長い時間はかからなかった。トラックを会社へ戻すことすら忘れて、剛は近づいてくる彼を注視していた。彼の服装は崩れていなかった。完璧に整えられていた。額に下りるさらさらした前髪が、西の空に沈みかける太陽に照らされ、海風で揺れた。彼の切れ長の目は内側から起こる止まらない疼痛に耐え切れないようだった。その痛みさえ、彼から離れた場所にいる剛にも感じられるほどだった。彼は剛に近づき、しかし顔色一つ変えることはなかった。剛が、日頃自分が訪問する運送会社の社員であることすら気付いていないかのようであった。剛の隣を通り過ぎ、彼は海の前に立った。海と彼を隔てるのは、海岸に沿って長く延びる白い鉄の柵だけだった。

 彼の背中を剛は見た。皺のないスーツの背中は、ひどく小さく見えた。まるで子供のようだと剛は胸の内が切なく痛んだ。柵を握る彼の手を剛の目が捉えた。完璧な手だった。完璧な形の手だと思った。その手は柵をまるで命綱のように握り締めていた。手の甲に血管が浮き出した。剛も自分の手の甲を見た。中高生の頃は非行に走り、喧嘩も数多く経験している。格闘技こそ習っていないが、この手で殴り、締め上げた人間は相当な数だった。

 その手を伸ばした。自然と伸ばしていた。海に体を向けながら白い柵を血管が浮き出るほどに握り込む美しい手の持ち主へ。

 剛は一歩踏み出していた。目の前の男へ。名前も知らない。人柄も、来歴も、嗜好も、何一つ情報を得ていない。しかし放っておけなかった。このまま彼を見なかったことにしてトラックに乗り込んで帰社したなら、一生後悔すると思えてならなかった。

 突然、彼がこちらに顔を向けた。まだ血の気が戻らない頬を照らす西日が、橙色と桃色とが混じり合った色が塗り替えた。

「何ですか」

 耳に心地よい音階だった。剛は伸ばした手を恥と共に引く。

「いや。顔色が良くないなと思って」

 普段のぶっきらぼうな自分からは想像だにしない言葉が喉を滑り出た。

 返ってきたのは冷笑だった。

「何ですか、急に」

 海だってこんなに冷たくはないだろう。剛は柄にもなく弱気になって、傷つけられたと感じて、足がすくんだ。この美しい男から浴びせられる嘲笑ほど誰かを傷つけるものはないと直感する。切れ長の黒い目が車体を切り裂いた。

「あそこの社員さんでしたか。今日、うちとの合併が決まりましたよ。ようやく社長さんが首を縦に振ってくれてね」

 言葉が皮肉なメロディとなる。メロディと感じるほど彼の声は清らかで麗しかった。

「あんた、名前は」

 もう一度剛は両ポケットに手を突っ込んだ。彼を見ていると胸の内に不協和音がやかましく鳴り響く。彼はもう一度海に顔を向ける。

和真かずま

 その声が夕暮れにぽんと投げ飛ばされた。

「実はね、僕、あなたのこと知ってたんですよ」

「偶然だな。俺もあんたを見ていた」

「あなたのお名前は?」

「剛」

 なぜかファーストネームのみで話が進んでいた。

 海に和真は続けた。

「僕ね、ずっとあなたが気になっていたんですよ。会社で見かけるたびにね。僕と同じにおいがするって」

「俺もだ」

 剛の中に巣くう糸の塊がほどけてゆく。同じにおい。確かに目の前の和真からは自分と同じにおいがする。思い出す。男相手の撮影現場。汗。体温。水たまりを歩くようなあの音。もしかして彼もそうだったのだろうか。

 風が冷たくなった。もうすぐ夜が来る。夜が剛はいつも怖かった。撮影はいつも夜だった。

「怖いか?」

 その一言を耳にした時、和真が鋭く振り返った。その顔にはもう笑いはなかった。

「どうしてあなたがそんなことを聞くんです?」

 声にも挑発も嘲笑もなかった。剛は目を閉じた。そして、開けた。会社のユニホームを冷気は簡単に突き破る。踏みしめるアスファルトから靴底へ寒さが忍び込む。和真の紐付きの革靴からも忍び込んでいることは容易に想像がついた。

「中、入るか?」

 剛は顎で車体をしゃくってみせた。

「ちっとはあったかいぜ」

 和真の目が揺らいだ。恐れ、驚き、かすかな喜び、夕焼け空と同じグラデーションが端正な顔立ちを彩る。

 和真が、明確に、媚びを見せた。

「やっぱり、そうなんですね」

 あざ笑うような響きが剛を小突く。

 剛は相手にしなかった。する価値もなかった。和真も自分と同じ傷と過去を抱え、苦しんできた、苦しんでいる、そのことを再確認しただけだった。ほぼ初対面に近いのに、精神の深い領域で二人は手と手を伸ばし合っていた。

「助手席、乗れよ」

 和真はよどみのない歩調でトラックに近づき、二人は狭い車内で隣り合った。

 和真が男娼そのものに変化する。小首をかしげて剛に人工甘味料のあざとさをふんだんにまぶした声をなすり付けた。

「分かっていたんですよ。あなたと僕は同類だって。男を相手にする男なのだって」

 その声が剛には悲鳴に聞こえた。この細い体を、今にもぼろぼろと崩れ落ちそうな実体を、この手で支えて止めなければ、その使命感だけが体の奥底からせり上がる。

 和真は皮肉な笑みを形のよい唇に刻んだ。

「僕はね、数えきれないくらいの男と経験してきたんですよ……」

 納得するが顔には出さない剛の太い首に、和真は細い両腕を絡め、艶然とほほえむ。

「どうしたんです、急に押し黙って……。いましたよ、トラック運転手も。もっとヤバい相手だってね。どんなプレイでもできるんです。剛さん、あなたみたいな人が喜ぶ技、試してみませんか」

 剛は和真を固く抱き締めた。たくましく厚い胸板で薄い胸筋を押しつぶすように。

「そんなもの、俺が塗り替えてやるよ」

 脈絡もない言葉だと分かっていて剛は口にした。剛が塗り替えたいのは自分自身だったからだ。和真にどのような過去があったのかは問題ではなかった。剛は和真に自分を見ていただけだった。しかし和真は剛の思考など読めるはずもない。さらに誘う。

「嘘じゃないよ……試してみますか?」

 耳元であえかな響きを聞きながら、剛は哀しみと諦念を宿した瞳を伏せ、頬を和真に寄せた。

「愛してたのか」

 和真が身を固くした。剛がそっと差し出した問いが、和真に自身の深淵を覗かせた。覗くと、素直に真実が浮かんで来た。

「みんな、僕の体が欲しいだけ」

 美しい横顔が夕焼けに向く。

「でも……あなたは違うね」

 ただ、抱き合う。肌のぬくもりが一月の寒い夕方に優しい。和真が剛の肩に顔を伏せる。汗のにおい、体のにおいが、和真を安心させた。

「あっためてやるよ」

 剛が和真を包む。まるで寒い夜にくるまる温かく懐かしい毛布のように。知らず知らず和真は美しい瞳から涙をこぼしていた。

「一緒に、いて……」

 首に絡めていた腕が剛の厚い背中を抱く。

「体じゃなくて、心を抱いて……」

「ああ、抱いていてやるよ」

 剛はしっかりと和真を包み込んだ。

 しばらく体温を伝え合った後、いったん和真を助手席に戻す。

「こんな所じゃ野暮だ。場所を変えようぜ」

 和真の瞳が不安と期待に揺らぐ。

「どこへ行きたいのですか」

「シートベルト締めろ」

 剛もそうして、車を進める。

「会社へは?」

「もちろんこいつを戻して俺の車に乗り換える」

「僕も剛さんの会社に行くのですか」

「おう。途中で落とすわけにはいかねえだろ。合併するって言っても、取引先は取引先だからな」

 和真がふっと口元を緩めた。

「そうでしたね。でも、何て言い訳するんです」

「途中で具合が悪くなってたお客さんを乗せた。嘘ついても仕方ねえだろ」

 剛の会社で二人はトラックを降り、剛の車で向かう。夕暮れはすでに終わり、東の空にひときわ輝く星を見た。藍色の空の下を二人は走る。

「あんたみてえな綺麗どころはどこでおやりになるんだ?」

 あくまでも真面目な剛に和真は吹き出す。

「どこでも。公園のトイレでしたこともありますよ」

 口調には卑下も皮肉も自嘲もない。

「あんまり綺麗な所だと俺が浮いちまう」

 憮然とする剛に和真は優しく、ささやくように伝えた。

「剛さんの部屋に行きたいな」

 剛の目が涙をたたえたかのように光った。

「俺の部屋か。あいにく、体の悪い親父と二人暮らしなんだ」

 フロントガラスを信号の赤が丸く照らす。

「僕も実家暮らしです。父は亡くなって、母が一人いますけど、まだ仕事が終わってないでしょうし」

「決まりだ。俺のうちへ来てくれ」

 アクセルを踏み込む。和真の胸が切なさという糸で縛り上げられた。

「いいのですか。お父さん、びっくりなさるんじゃ?」

 剛は緩く息を吐き出す。

「取引先の人が帰れなくなったから泊めるって言やあいいよ」

 コンビニエンスストアの蛍光灯が闇を切り取るように店のガラス窓からはみ出している。剛はハンドルを切って駐車場に入った。

「ちょっと用意しときたいもんがあるんでな。あんたも降りるか?」

 和真は声に出して返事をする代わりに微笑を見せた。トラックの運転席で見たよりも寛いだほほえみに剛は思わず目を奪われる。

「ドラッグストアの方がよかったかな?」

 和真と肩を並べながら、和真にだけ聞こえる声で剛が言った。彼が意味するところを察し、和真は剛の節くれだった太い指をわずかに握る。

「僕、いつも持ってますから」

 太い指が、繊細で長い指に絡み、すぐに引き抜かれる。

「そういうことは言わないの。それに」

 客は少なかった。店員も下を向いている。剛が和真の形の良い耳に唇を近寄せた。

「これからは持ち歩くんじゃねえ。俺だけのおまえになるんだから」

 和真が立ち止まる。土砂降りの雨の中を傘も差さずに歩いてきた人が、不意に屋内へ招かれたように。

 剛が和真の肩を軽く叩く。和真がいきなり眠りから揺り起こされたように我に返る。

「まあ、手持ちの物があるなら、今日はそれで済ますか」

 武骨な、けれど熱っぽい手が和真の肉の薄い手を包んだ。和真がすぐに包み返す。

「男同士ですからね。あった方が絶対にいいです」

 目を見合わせ、微苦笑する。剛がショーケースから焼きそばを三人前取ってレジへ向かう。和真が替えの下着を自分で清算しようとするのを止め、剛が全部支払った。剛の家はコンビニエンスストアから五分ほど走った場所に建っていた。築四十年くらいだろうかと和真は見積もる。木造二階建てで、壁には黒い汚れが目立った。建付けの良くない玄関の引き戸を開けると、和真の予想に反して整理整頓が行き届いている。

「ただいま。今日、お客さんがいる」

 剛の太い声に、こたつに入ったまま、剛と体格の似た男性が答えた。

「お客さん? 珍しいな」

 こたつから出た男性は、年齢を重ねても体幹がしっかりしていた。

「これは、どうも。剛の父です。失礼ですが、剛とはどのような……」

 和真が深く一礼し、卒のない笑顔で答えた。

「はじめまして、お父様。取引先の者です。体調不良で苦しんでいたところを、剛さんに介抱していただきまして。今日はこちらで休みなさいとおっしゃっていただきました」

「ああ、それは大変でしたね。剛。すぐに布団を用意してさしあげて」

 焼きそばをちゃぶ台に置き、風呂場へ向かいながら剛が言う。

「先に汗流してもらった方がいいんじゃねえのか。風呂ためてくるわ」

「そうだな。さっぱりして、早めに休んでいただいて……むさくるしい所で申し訳ありません」

 父親が恐縮する。

「どうぞお父様、お気遣いなく」

 和真は笑みを崩さずに伝えた。ちゃぶ台を囲んで三人で焼きそばを平らげる。剛が台所から熱い緑茶を持ってきた。これまでに口にしたどんな高級なお茶よりも美味いと和真は嬉しさがこみ上げる。風呂場に案内し、剛は和真にスウェットを差し出した。

「でけえかもしれねえけど、スーツのまま寝るわけにはいかねえだろ」 

「ありがとうございます」

 疲れた体に熱いお湯がしみわたる。こんなに自分は冷え切っていたのかと今さらながらに実感する和真である。

 小さな湯船に体をゆだね、目を閉じる。狭い浴室で大きな体を縮めて洗う剛の姿が目に浮かび、にやけてしまった。スウェットを着たが、細身の和真では体が泳いでしまう。剛と父親の前に出ると、父親が苦笑いし、剛がばつが悪そうに眉を寄せた。

「子供が大人の服を着たみてえじゃねえか」

 和真も赤くなる。

「剛さんが大柄なんですよ」

「剛。おまえも入ってこい。ええと」

 和真を見て父親が立ち上がる。

「どうせなら剛の部屋で一緒にお休みになりますか。狭いですけど」

 どきんと心臓が跳ねる。

「ええ」

 父親に連れられて歩く背中で、剛が浴室の引き戸を閉める音を聞いた。剛の部屋は殺風景だった。壁には何も貼られていない。机もない。布団が一組、きちんと畳まれて壁際に寄せてあった。父親が隣の部屋から布団を抱えて入ってきた。

「こちらでお休みください。スーツ、ハンガーにかけていただいて」

「ありがとうございます」

「私は隣で休んでますので、何かあったらお声がけください」

 ふすまを閉めながら父親が声をかける。和真は剛の部屋に向けていた意識をあわてて引き戻した。

「はい。何から何までありがとうございます。おやすみなさい」

 布団を敷き、横になる。しかし、眠れなかった。剛がここへ来る。そして……。想像し、シーツを握り締める。からりとふすまが開いた。和真は跳ね起きる。

「剛、さん」

 剛の髪は濡れたままだった。無言でふすまを閉め、照明を落とす。足音を忍ばせて壁際の布団に寄り、和真の隣に敷く。心臓が倍の速さで鼓動を刻み、体がはっきりと欲望に忠実に反応する。剛さん、と呼ぼうとした時、太い腕に抱き寄せられた。

 まだ熱い湯の余韻。ボディソープの香りは思いのほか淡かった。剛の体と和真の体がぴたりと重なる。互いの高まりもひたと吸い付いた。和真の理性と抑制が弾け飛ぶ。剛の厚い背中をかき抱いた。剛も和真の冷え切った背中を大きな温かい手のひらで押さえる。

 耳元で剛の性急な、熱い、湿った声がする。

「持ってる物、出せよ」

 和真は枕元に置いたリュックからポーチを取り出し、ジッパーを開けて剛の前に差し出す。剛がそれを受け取る。

「俺もな……経験はあるんだ……でも……」

 続く言葉が予想できて、和真はほほえむ。目尻から涙がひとしずく、ひそやかにきらめきながら枕へ流れ落ちた。涙の跡に剛の唇が触れる。触れたまま告げた。

「おまえは俺の初めてだぜ」

 和真の体は名工の手になる彫刻のように完璧だった。なめらかで、傷一つなかった。カットせずとも輝く宝石だった。しかし、乱暴に扱えばすぐさま剥がれ落ちる脆さをも内包していた。和真の脆さを剛は手のひらで掬って寄せ集め、優しく整えていった。和真は剛の手で本来の自分を構成し直した。体温を焦らずに伝えながら、剛は和真の深淵へと降りて行った。和真も自らを剛に明け渡す。真剣なまなざしを通わせながらおこなわれる儀式は、一言も漏らさぬ絶対的な静けさの中で進められた。心からの思いやりに裏打ちされた剛の動きと彼にこたえる和真の身のこなしは、二人の間に構築された全ての障壁を融解させた。和真の爪が剛の盛り上がった背筋に食い込む。声を上げそうになる和真の唇の前に剛は黙って肩を差し出した。

 小さなうごめきは大きな波に変化した。そのあとに二人を震えるような絶頂と甘美な熱が襲った。剛の鋭い眉目と和真の繊細な美貌が息が触れ合うほど間近にある。

「聞いて……」

 和真の吐息が剛の内奥に甘く忍び込む。鍛えられた胸板に和真の頭を乗せ、両腕で包み込んだ。

「最初はバイトだったんだ……奨学金だけじゃとても足りなかったし返さなきゃだし……だんだん要求が増えて行って、しまいには何人もにもてあそばれた……だんだん恥ずかしさもなくなって、むしろ俺が女王のように奴らに奉仕させて……でも虚しかった……ずっと、ずっと、剛さんのような人を求めていた……何も言わずに駄目な俺を包んでくれる人を……やっと出会えた……」

「俺もそうだった」

 剛の声はカーテンの向こうで深まりゆく夜をかすかに揺り動かした。

「親父が通院するための金がいる。だから言えねえこともたくさんやった。野郎とやるのもその一つだった。俺がやられる時もあったけどな。今でも動画が上がってるはずだぜ。顔は映ってねえけどな」

 今度は和真が剛の頭を胸に抱く番だった。剛も和真の体をそっと抱き返す。

「剛さん」

「呼び捨てでいいよ。あとタメ口な」

 和真の繊細な横顔がほころぶ。

「剛」

「和真」

 剛は布団を引き上げた。

「今度はおふくろさんに紹介してくれよ」

「いいよ」

 笑顔を見かわし、二人はひそやかなぬくもりを楽しんだ。剛にとっての夜が変わった。もう、怖くない。和真が、変えてくれた。

 剛がカーテンを開けた時、外はまだ暗かった。午前六時。彼の朝は早い。まだ布団の中で二人で寄り添い暖まっていたいが、今日も仕事がある。和真も同じだ。素肌を朝の爽やかで清潔な空気が遠慮なく冷やす。身を起こし、目を合わせてそっと微笑し、二人は無言で身支度を整えた。剛の父親はすでに台所で朝食を作っている。ちゃぶ台に、炊き立てのごはんと、大根と油揚げの味噌汁と、パックに入った納豆が並んだ。熱いほうじ茶も添えられる。

「よくお休みになれましたか」

 穏やかに問う父親に、和真も柔らかな表情で答える。

「ええ。おかげさまで」

「剛も失礼がなかったかい」

 いきなり話を振られたが、剛は落ち着いていた。

「おう」

 食器は和真が洗った。剛の車で出発し、先に和真の会社へ向かう。すでにビルの各階には照明がつき、社員が続々と自動ドアから入っていく。会社の前で降りた和真はスーツという甲冑を一分の隙もなく着こなし、昨晩のなまめかしさを微塵も感じさせない。剛も同じだった。繊細で弱い部分は、和真にしか見せないと決めている。

「じゃあな」

 窓枠に肘を乗せて剛が小さな笑みを浮かべると、和真は真昼の太陽のように明るさに満ちた笑顔で手を振った。



〈了〉



(二〇二六年一月) 

【三題噺 #128】「旅」「支」「手」

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