第2話 新人バイト、篠宮ミオ
開店一時間前。
厨房では、昨晩から炊き続けている豚骨スープが、限界まで乳化してドロドロの泡を噴いている。
換気扇は全開だが、匂いは隠せない。獣と脂とニンニクが混ざり合った、暴力的な熱気。
その只中で、新しいバイトが死んだ魚のような目をしていた。
「……あの、店長」
「ん? どうした
店長は、今日もパリッとしたベストを着て、優雅にグラスを磨いている。
対する新人――篠宮ミオは、震える手で求人誌の切り抜きを指さした。
「ここの求人、『未経験歓迎、オシャレなヌードルサロンで優雅に働きませんか』って書いてありましたよね」
「うん、書いてあるね」
「サロン要素、どこですか……? ここ、ガチの戦場じゃないですか……!」
ミオの抗議はもっともだ。
彼女は茶髪を緩く巻いた、いかにも「カフェの店員」が似合いそうな女子大生だ。
サロンという響きに釣られて面接に来て、店長のうさんくさい笑顔と外観のオシャレさに騙され、採用された。
そして今、バックヤードで強制的に黒いTシャツと頭タオルを装着させられ、現実に直面している。
「篠宮、手が止まってる」
俺は寸胴をかき混ぜながら声をかけた。
ミオが「ひっ」と肩を跳ねさせる。
「あ、あの、
「匂いは慣れる。それよりホールに出ろ。水、コップ、レンゲ、テーブルのダスター。位置を覚えろ」
「は、はいっ!」
ミオは涙目になりながらホールへ飛び出していった。
俺はため息をつく。
この店は回転が命だ。新人がもたつけば、それだけでロット(麺を茹でる単位)が崩れ、客の待ち時間が増える。
だが、店長は「愛嬌がある子がホールにいると、殺伐とした空気が和らぐだろ?」などと言って採用してしまった。
俺に必要なのは愛嬌より手際だが、決まったものは仕方ない。
十一時。開店。
ベルが鳴り、最初の客が入ってくる。
そこからはノンストップだ。
「いらっしゃいませぇ……!」
ミオの声が裏返る。
食券を受け取り、厨房へ通す。そこまではいい。
問題は提供時だ。
「お待ちどおさまでした、ラーメンですっ」
ミオがカウンター越しに丼を提供しようとした瞬間、重さと脂で手が滑りそうになった。
丼が傾く。スープが溢れ――る前に、俺は厨房側から手を伸ばし、丼の底を支えた。
「あっ……」
「熱いから
俺は短く言い捨て、客の前に丼を正しくセットする。
客は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「どうも」と箸を割った。
ミオが顔面蒼白で俺を見る。
「す、すみません! 私、こぼすところでした……!」
「謝らなくていい。次、二番席の水がない。補充」
「は、はいっ!」
ミオはパニックになりながらも、給水機へ走った。
俺は次の麺を鍋に放り込む。
怒鳴っている暇はない。ミスを責める時間があるなら、次のミスを防ぐ指示を出した方が早い。
それだけの話だ。
昼のピークが過ぎ、一時半。
客足が少し落ち着いたタイミングで、店長がミオに声をかけた。
「どうだ篠宮ちゃん、息してるか?」
「ぜぇ、ぜぇ……し、死ぬかと思いました……なんですかこの店……お客さん、みんな無言で食べてすぐ帰るし……スマホ見てる人いないし……」
「それがうちのルールだからね」
店長は満足そうに頷き、壁の小さな掲示を指さした。
『撮影禁止』『私語は控えめに』『お食事後は速やかに退席を』。
英語併記でスタイリッシュに書かれているが、内容は鉄の掟だ。
「うちは“聖域”なんだよ。誰にも邪魔されず、ただ豚と向き合うためのね。だから回転を乱す行為はNG。篠宮ちゃんの仕事は、その空気を守ること」
「空気を……守る……?」
「そう。あと、初心者が来たら『麺少なめ』を提案してあげること。残すと空気が重くなるからね」
ミオはポカンとしている。
理解できなくて当然だ。だが、彼女もそのうち慣れるだろう。
俺は洗い物をしながら、横目でミオの様子を窺う。
辞めると言い出すかと思ったが、彼女は意外にも、俺の方をじっと見ていた。
「……相良先輩って」
「ん」
「なんか、もっと怖い人かと思ってました」
「怖いだろ」
「いや、怖いですけど。さっき、ミスりそうになった時……怒鳴らなかったから」
ミオは不思議そうに首をかしげている。
一般の飲食店の厨房がどうなのかは知らないが、俺にとって怒鳴ることはカロリーの無駄だ。
「怒鳴っても手際は良くならない。次、間違えなければいい」
「……は、はい。次は気をつけます」
「そうしろ」
俺はそっけなく返し、仕込みに戻った。
ミオは「はぁー」と長い息を吐きながらも、どこか安心したような顔でダスターを手に取った。
とりあえず、初日で逃げ出すことはなさそうだ。
俺たちがそんなやり取りをしている頃。
ミオは更衣室の陰で、震える指でスマホを操作していた。
***
〈ポスト〉
アカウント:ミオ(裏)🔒 @m_real_life
本文:
バイト初日終了ー。しんだ😇😇😇
「オシャレなヌードルサロン✨」って求人に書いてあったのに、行ったらガチのラーメン屋(しかも山盛りのやつ🍜)だった件について✋
マジで詐欺じゃん⁉️⁉️💦
店長はバーテンダーの格好した詐欺師だし、厨房の先輩(無口・目つき悪い)はロボットみたいに動き続けてるし……🤖
あーもう、髪の毛が豚骨くさい‼️🐽💢 最悪‼️😭
でも、ミスっても怒鳴られなかったのだけは意外だったかも🤔
「次、間違えるな」って言われただけ。逆に怖い🫠
とりあえず賄いで少し食べたけど、悔しいくらい美味しかった……🤦♀️💕
明日も頑張る(棒)
リプライ:
(友人A):え、ラーメン屋なの?www カフェだと思ってた☕
(ミオ):>カフェだと思って面接行った私のバカ‼️🥺 騙された‼️💢
***
【あとがき】
第2話をお読みいただきありがとうございます!
読者の皆さんの分身となる(?)一般人代表、ミオちゃんが登場しました。
彼女の視点が入ることで、この店がいかに「普通じゃないか」が伝われば嬉しいです。
「続きが気になる!」「ミオちゃん頑張れ!」と思ったら、ぜひ作品フォローと、ページ下部の【☆☆☆】から評価をお願いします!
(皆さんの応援が執筆のエネルギー、脂マシマシになります!)
明日は第3話、とあるアイドルが来店します。
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