第3話 侵食する指
新宿駅の喧騒は、地下九号通路の防火扉一枚を隔てただけで、まるで水槽の外の出来事のように遠のく。
佐藤は、事務机の下でこっそりと右手の袖を捲り上げた。
「……また、広がってる」
手首に残された、あの『影喰い』の指痕。
最初はただの黒ずんだ痣だと思っていた。だが、事件から一晩明けた今、その黒い汚れは血管に沿って、肘のあたりまで這い上がってきてい
る。
しかも、それはただの色ではない。
よく見ると、皮膚の下で『何か』が蠢いているのだ。ミミズが這うような、あるいは無数の小さな虫が皮下を移動しているような、不快な痒みと鈍痛。
「佐藤。手を出すなと言ったはずだ」
書類の山から顔を上げず、黒江が低く言った。彼は見ていないはずなのに、佐藤の異変を正確に察知している。
「……黒江さん、これ。病院に行った方がいいんでしょうか」
「無駄だ。レントゲンには写らんし、医者に見せたところで精神科に回されるのがオチだ。それは『異界の壊死』。あっち側の存在に直接触れられたことによる、魂の拒絶反応だ」
黒江は椅子を蹴って立ち上がると、佐藤の手を乱暴に掴み、捲り上げられた腕を凝視した。
「……チッ、浸食が早いな。お前、昨日の夜、何を食べた?」
「えっ? ……コンビニの弁当と、サラダですけど」
「味はしたか?」
「いえ……砂を噛んでいるみたいで、あまり」
黒江の顔が、これまでで一番険しくなった。
「いいか、佐藤。感覚の変質は、同化の始まりだ。このまま放置すれば、一週間後にはお前の体から『色』が消える。そして最後には、さっきの渡辺と同じように影の中に引きずり込まれるぞ」
恐怖で佐藤の心臓が早鐘を打つ。
その鼓動に呼応するように、腕の黒い模様がドクン、ドクンと脈打った。模様だと思っていたものは、今や細かな『鱗』ように硬質化し、皮膚を内側から突き破ろうとしている。
「……あ、うっ……!」
佐藤が呻き声を上げると同時に、腕の黒い部分から、小さな『口』のような亀裂が無数に開いた。
そこから漏れ出すのは、血ではない。
新宿駅の地下に溜まった、あの『湿った闇』と同じ匂いのする、どろりとした黒い液体だった。
「暴れるな。今から『処置』する。……奥の収蔵庫から、管理番号『甲-004』を持ってこい。急げ!」
佐藤は激痛に耐えながら、千鳥足で奥の重い扉を開けた。
そこには、都の備品とは思えない不気味な品々が並んでいる。呪われた刀、血を吸う鏡、そして——。
佐藤は、言われた番号の棚から、一つの小さな桐箱を掴み出した。
中に入っていたのは、古びた、しかし異様に鋭利な『爪切り』のような道具だった。
だが、その刃先には、びっしりと経文が刻まれている。
「貸せ」
黒江は佐藤を椅子に組み伏せると、その道具で佐藤の腕の『鱗』を躊躇なく剥ぎ取り始めた。
——ギチッ、ギチィッ!
生爪を剥がされるような、あるいは神経を直接削られるような激痛。佐藤の視界が白く弾ける。
「……っ、あああああぁぁぁ!!」
「声を出すな! 飲み込まれるぞ!」
剥がされた鱗の跡からは、黒い触手のような細い糸が、逃げ場を求めて空中でのたうち回る。黒江はそれを一本ずつ、慣れた手つきで摘み取り、
近くにあった『火鉢』の中へ放り込んだ。
糸が焼けるたびに、赤ん坊の泣き声のような高い音が、シン……と部屋に響く。
数分後。
処置が終わった佐藤の腕は、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
激痛の余韻で指先が震え、全身が嫌な汗で濡れている。
「……取れた、んですか」
「表面上の『芽』は摘んだ。だが、根っこはお前の精神にまで届いている。これから毎日、その道具で自分で削れ。怠れば、次こそお前が『遺失物』として箱に入れられる番だ」
黒江はそう言うと、再び自分のデスクに戻り、冷めたコーヒーを啜った。
佐藤は、包帯越しに自分の腕をさすった。
まだ、皮膚の下で何かが蠢いている。
それは、単なる怪我ではない。
自分という存在の境界線が、
この『異界遺失物係』という職場に、じわじわと、しかし確実に溶け出し始めている証拠だった。
「……黒江さん。一つ、聞いていいですか」
「なんだ」
「黒江さんのその、死んだような目も……やっぱり、『処置』の結果なんですか?」
黒江は答えなかった。
ただ、彼が捲り上げた袖の隙間から見えた腕は、佐藤のものよりも遥かに黒く、もはや人間の肌の色をしていなかった。
新宿駅東口地下九号通路、異界遺失物係の業務日誌 男女鹿メテ(オメガメテ) @AK3DA
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