第2話 影を失くしたサラリーマン

「東京都環境局・特殊遺失物管理課」の窓口には、時折、自分が何を失ったのかさえ自覚していない者が訪れる。


 午後二時。地下九号通路の湿った空気が一段と重く感じられる頃、その男はやってきた。


 自動ドアではない、重い手動の防火扉が

『ギィ……』と悲鳴を上げて開く。


 入ってきたのは、どこにでもいるような四十代半ばのサラリーマンだった。安物のスーツ、使い古されたブリーフケース、そして酷く顔色の悪い、疲弊しきった表情。


 だが、彼が足を踏み入れた瞬間、新人の佐藤は言葉を失った。


 男の足元。蛍光灯の光に照らされているはずの床に、『それ』がなかった。


「……あの、ここなら、見つかると聞いたんですが」


 男の声は、まるで遠い井戸の底から響いてくるように掠れていた。


 佐藤は、男の姿がわずかに『透けて』いることに気づき、背筋に冷たいものが走る。


男の背後の棚に並んだ書類ファイルの背表紙が、彼の胸越しに薄らと見えているのだ。


「お名前と、紛失した日時、場所を」


 黒江は動じない。死んだ魚のような目で、事務的に受付票を差し出す。


「名前は、渡辺です。失くしたのは……昨日の夜。終電間際の、埼京線のホームです。酔っていて、ふと足元を見たら……無かったんです。最初は暗いからだと思った。でも、家に帰って電気をつけても、やっぱり、無くて」


 渡辺と名乗った男は、震える手で受付票を書こうとした。しかし、ペンを握る彼の手は、すでにペンより透明に近づいていた。


 黒江が佐藤に目配せをする。


「佐藤、検分しろ。素手で触るなよ。影のない奴の境界線は、もう『こちら側』じゃない」


 佐藤はおそるおそる、特殊な偏光レンズが嵌められた『検分用ゴーグル』を装着した。


 レンズ越しに渡辺を見ると、佐藤は危うく悲鳴を上げそうになった。


 渡辺の足元からは、無数の『黒い糸』のようなものが、ずるずると地下の床へと吸い込まれていた。それは影の残骸ではない。何かが、彼の存在そのものを足の裏から『啜って』いるのだ。


「黒江さん……これ、何かに喰われてます。影だけじゃない、存在が削られてる」


「だろうな。埼京線のホーム、深夜か。あそこには『影喰い』が居座る隙間がある」


 黒江は立ち上がり、デスクの奥から一本の古びたビデオテープを取り出した。ラベルには


『1998年 埼京線北端・未解決紛失物』と書かれている。


「渡辺さん。あんた、影を落としたんじゃない。『貸した』んだな?」


 渡辺の肩が、びくりと跳ねた。


「……貸した? いえ、私はただ……」


「隠しても無駄だ。影喰いは、同意のない影は食わない。あんた、ホームで誰かに声をかけられただろう。『少し重荷を預かりましょうか』とか、『足元が重そうですね』とか」


 渡辺の顔が、恐怖で土気色に変わった。


「……老婆でした。小さくて、顔が真っ黒な布で覆われた老婆が……。仕事で失敗して、死にたいくらい疲れていたんです。そしたら、『その暗い影を少し預かれば、身軽になれますよ』って。私は、ああ、いいですね、って……」


 その瞬間、部屋の気温が急激に下がった。


パシッ、と蛍光灯が一つ割れ、破片が床に飛び散る。


 渡辺の体が、一気に透明度を増した。もはや、彼が座っている椅子のパイプがはっきりと見える。


「マズいな。契約成立済みか」


 黒江は事務机の引き出しから、一振りの、刃のない儀礼用のナイフ——『裁ち切り』を取り出した。


「佐藤、男の両腕を押さえろ。影喰いは今、あんたが『身軽になりたい』と言ったから、あんたの魂を骨ごと引き抜こうとしてる」


「えっ、僕がですか!?」


「早くしろ! 消滅ロストしたら、こいつは永遠に新宿駅の『案内板の一部』に書き換えられるぞ!」


 佐藤は意を決して、透けかかった渡辺の肩を掴んだ。


 感触がない。氷のように冷たく、まるで霧を掴んでいるような感覚。


 その時、渡辺の口が、あり得ない角度まで大きく開いた。


『……アリガトウ。身軽ニシテアゲル』


 渡辺の声ではない。複数の、女とも子供ともつかない粘ついた声が、彼の喉から溢れ出した。


 渡辺の影があるべき場所から、どす黒い『手』が這い出してきた。


それは佐藤の手首を掴み、猛烈な力で『あちら側』へ引きずり込もうとする。


「くっ……離せ!」


「動くな!」


 黒江が叫び、裁ち切りのナイフを渡辺の足元に突き立てた。


 ナイフは床を貫通せず、まるで見えない肉を切り裂いたかのような、生々しい『ブチッ』という音を立てた。


 ——ギィィィィィィィ!!


 鼓膜を劈くような絶叫が部屋中に響き渡る。

 渡辺の体から溢れていた黒い糸が、逆流するように彼の足元へ戻っていく。


 黒江は間髪入れず、懐から『遺失物一時保管用』の赤いシールを取り出すと、渡辺の額に叩きつけた。


「『管理番号・埼京09-22。未承認の譲渡を無効とする』!」


 一瞬の静寂。


 パリン、と最後の蛍光灯が割れ、部屋は非常用の赤い予備灯だけに照らされた。


 ハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら、佐藤は床にへたり込んだ。


 見れば、渡辺の姿は元の通り、不透明なサラリーマンに戻っていた。足元には、薄っすらとだが、歪な影が戻っている。


「……助かった、んですか?」


 渡辺が力なく呟く。


「影は戻した。だが、一度あっちに半分持っていかれたんだ。しばらくは、鏡を見るな。自分の顔が、自分じゃないものに見える時期があるが……まあ、慣れればどうってことはない」


 黒江は事務的に書類にハンコを突いた。


「還付手続き完了だ。手数料として、あんたの『今日の記憶』の半分を頂く。……佐藤、こいつを出口まで案内しろ。二度と九号通路には戻ってくるなよ」


 渡辺がふらふらと部屋を出ていくのを見届けた後、佐藤は自分の手を見た。


 影喰いに掴まれた手首に、黒い指の跡がくっきりと残っている。


「黒江さん……これ、消えませんよ」


「勲章だ。ここにいる限り、お前も少しずつ『あっち側』に染まっていく」


 黒江は割れた蛍光灯を掃き掃除しながら、吐き捨てるように言った。

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