新宿駅東口地下九号通路、異界遺失物係の業務日誌
男女鹿メテ(オメガメテ)
第1話 迷い込んだ先の、お役所仕事
一日平均の乗降客数が世界一。ギネス記録にも載るその数字は、言い換えれば、それだけ多くの『何か』がこの場所で失われているということでもある。
片方の靴下、使い古されたビニール傘、昨日買ったばかりの文庫本、あるいは、決して他人に知られてはならない秘密。
新宿駅は、巨大な消化器官だ。飲み込まれた人々の持ち物は、駅という胃袋の中で絶えず消化され、忘れ去られていく。
だが。
その巨大な『忘れ物』の輪の中に、どうしても混じり合わないものが存在する。
新宿駅東口、迷宮のように入り組んだ地下通路。
行き交う人々は、鮮やかなデジタルサイネージや、新しくオープンしたばかりのカフェへと視線を向けている。
誰もが最短距離で目的地へ向かおうと急ぎ、足元のタイルのひび割れ一つに目を留める余裕などない。
だからこそ、その場所はそこにあるのだ。
アルタの方面へ向かう通路の途中に、清掃用具入れの陰に隠れるようにして、細い脇道がある。
壁に貼られた案内図には、そこはただのデッドスペースとして描かれているか、あるいは線すら引かれていない。その、案内図にも載っていない『東口地下九号通路』の突き当たりに、その役所はある。
スチール製の重い防火扉。
その横に、長年の湿気で端がわずかに錆びた真鍮のプレートが掲げられていた。
『東京都環境局・特殊遺失物管理課』。
通称、異界遺失物係。
扉を開けると、新宿の喧騒は嘘のように途絶えた。
代わりに耳に届くのは、旧式の蛍光灯が発する低い『ジジッ……』という電気音と、年代物の加湿器が吐き出す頼りない蒸気の音。そして、古紙と、わずかに焦げた線香のような、正体不明の匂い。
「……遅い」
入り口から一番近いデスクで、一人の男が書類から目を上げずに言った。
使い古された事務机の上には、パソコンのモニターと、山積みになった『茶封筒』、そしてなぜか半分に割れた不気味な面が置かれている。
男の名は、
この特殊遺失物管理課の係長であり、ここでの数少ない常駐職員だ。彼は、まるで死んだ魚のような目で、入ってきたばかりの青年——本日ここに配属された新人、佐藤を見据えた。
「すみません、道に迷ってしまって……。地図を見ても、ここが載っていなくて」
「だろうな。ここは『見ようとしない者』には見えないように設計されている。都議会の予算案でも『その他雑費』のさらに裏側に隠されているような場所だ」
黒江は気怠げに椅子を回すと、佐藤に一枚のファイルを放り投げた。
「挨拶はいい。さっそく仕事だ。さっき届いた『落とし物』の検収をしろ。三番テーブルだ」
佐藤は促されるまま、部屋の奥にある重厚な木製のテーブルへ向かった。
そこには、駅の遺失物センターから『回送』されてきたという一つの箱が置かれている。
一見すれば、ただの段ボール箱だ。しかし、その表面にはびっしりと、お札のような呪印が印刷されたテープが巻き付けられていた。
「これ……開けても大丈夫なんですか?」
「死にゃしない。ただし、素手で触るな。備え付けのラテックス手袋と、必要ならその横にある真言の刻印が入ったトングを使え」
黒江の指示は、あまりに事務的だった。
佐藤はおそるおそる手袋をはめ、ハサミでテープを切る。
箱の中に入っていたのは、一足の、子供用の赤い靴だった。
どこにでもあるような、可愛らしいエナメル製のストラップシューズ。しかし、佐藤がそれを持ち上げようとした瞬間、背筋に凍り付くような違和感が走った。
重い。
子供の靴にしては、あまりに重すぎる。まるで、その中に鉛でも詰まっているか、あるいは——誰かの視線が詰まっているような重さ。
「……黒江さん、これ。右足しかありません」
「ああ、そいつは『片足の迷子』の供物だ。昨日の終電後、中央線のホームのベンチ下に置いてあったらしい」
「供物?」
「異界の住民が、こちら側へ干渉するための通行料、あるいは、ただの置き土産だ。いいか、佐藤。新宿駅ってのは、この世とあの世の境目が一番薄い場所なんだ。毎日これだけの人間が動けば、時折、あっち側の『何か』が混ざり込む」
黒江は立ち上がり、ゆっくりと佐藤の背後に立った。
「普通の忘れ物なら、三ヶ月待って持ち主が現れなければ処分か公売だ。だが、こいつらは違う。持ち主が現れるのを待っちゃいけない。さっさと『処理』して、あっち側に送り返す。それが俺たちの仕事だ」
佐藤が靴をよく見ると、靴底にびっしりと、見たこともない文字が刻まれていた。それは脈打つように淡く発光し、佐藤の脳内に直接、幼い子供の笑い声のような響きを送り込んでくる。
「……笑ってる?」
「耳を貸すな。取り込まれるぞ」
黒江が鋭い声で言った。彼はデスクの引き出しから、古びたスタンプを取り出すと、それを靴の甲に力強く押し当てた。
『還納済』。
赤い印影が刻まれた瞬間、靴から放たれていた異様な重圧が霧散した。
「よし、これでいい。それは地下の『特一号保管庫』へ運んどけ。」
黒江は再びデスクに戻り、冷めたコーヒーを口にした。
新宿駅の地下、案内図にも載っていない場所で、彼らはこうして世界の均衡を保っている。
拾ったのは、人ならざる者の執念。
預かるのは、この世ならざる者の未練。
佐藤は、手の中の軽くなった靴を見つめながら、自分がとんでもない場所に来てしまったことをようやく理解した。
地上では、相変わらず何万という人々が、足元に広がる闇のことなど露知らず、次の電車へと急いでいる。
「……あの、黒江さん。これ、……あと何件くらい続くんですか?」
「さあな。この駅が消えない限り、落とし物は無くならない。……仕事に戻れ。」
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