手の記憶
塩塚 和人
第1話 手の記憶
小雨の降る午後、街角の古びたカフェに一人の男が座っていた。名前は志村陽一。彼は右手をテーブルの上でそっと見つめる。手のひらには、細かい傷や小さなしみが刻まれていて、まるで自分の人生の地図のようだった。
「手は覚えている…」陽一は、かすかな独り言を漏らす。
彼が思い出していたのは、十五年前の夏の日のことだった。まだ高校生だった陽一は、親友の涼太と共に自転車で田舎道を駆け抜けていた。陽一の手は、涼太の手を強く握るようにハンドルを握っていた。あの時、二人は未来の話をしていた。大学のこと、夢の仕事のこと、そして恋愛のこと。何もかもが無邪気で、手のひらの温もりが互いの勇気になっていた。
しかし、時は残酷だった。大学進学を機に二人は別々の道を歩むことになり、手を取り合う機会は次第に減っていった。陽一は手のひらの感触を思い出すたびに、どこか寂しさを感じるようになった。
数年後、陽一はカメラマンとしての道を歩み始めた。初めて撮影したのは、祖母の手だった。皺だらけの手が、長年の苦労と愛情を物語っていた。その瞬間、陽一は悟った。手にはただ形があるだけではなく、時間や感情、思い出が刻まれることを。シャッターを切る指先が震えたのは、過去の自分の手を思い出していたからかもしれない。
ある日、仕事で訪れた街角の写真展で、一枚の写真が陽一の目に飛び込んだ。白黒の写真に映るのは、細く長い指を組み合わせて小さな光を作る少女の手だった。その手は、まるで何かを守ろうとしているようで、陽一の胸を強く打った。写真家のメッセージはこうだった。「手は、未来への希望も、過去の記憶も握っている。」
その日から、陽一は「手」に魅せられ、手をテーマにした写真を撮り始めた。老人のしわくちゃの手、赤ん坊のぷにぷにの手、働く人々の荒れた手。手の一つひとつに物語があり、どんな言葉よりも雄弁に人間の生き様を語っていた。
だが、陽一の右手にはある秘密があった。それは、かつて親友・涼太との約束の証として小さな傷を残したものだった。その傷を見るたび、陽一は決意を新たにした。「いつか、あの手をもう一度握る。」
数年後、陽一は写真展の最終日、偶然にも涼太と再会する。二人は無言で互いの手を見つめる。涼太の手もまた、年月を経て変わっていた。しかし、あの夏の日と同じ温もりがそこにあった。やがて、陽一はゆっくりと手を伸ばし、涼太の手を包む。握った瞬間、時間が一瞬戻ったように感じられた。
「覚えてるか、あの夏の日の手のひらを?」
涼太は笑いながらうなずいた。「もちろんだよ。俺たちの手は、ずっと覚えていたんだ。」
その夜、陽一はカフェの窓際に座り、手をテーブルに広げる。傷やしわ、そして小さなしみまでが、彼の人生の証であり、未来への希望でもある。手のひらを見つめるたびに、過去の記憶と未来の可能性が交錯し、静かな幸福が胸を満たした。
手はただの道具ではない。手は、愛情も、友情も、孤独も、希望も抱きしめる器だと、陽一は確信した。握ることで人とつながり、触れることで心を伝える。手の温もりは、言葉以上に深く、人の心を動かす力を持っているのだ。
その夜、窓の外で小雨が静かに降り続ける中、陽一の手は過去と未来を抱きしめるように静かに広がっていた。
手の記憶 塩塚 和人 @shiotsuka_kazuto123
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます