https://kakuyomu.jp/works/2912051606845985742
異世界エル。
その名の通り、人類の常識が遠く及びに行かない、圧倒的なマナの濃縮された大地。
文明の利便性など影も形もない、精霊と魔獣、そして圧倒的な強者が覇権を争うファンタジーの極北。
その中心部――地図の果てに位置し、いかなる冒険者も踏み込むことを許されない『深淵の森』。
そこにそびえ立つ黒曜石の城の庭園で、風がぴたりと止まった。
空間が、紙を裂くようにぐにゃりと歪んだ。
物理法則など何の意味も持たない。
ただの「演出」として、そこにひとりの男が降り立った。
年齢不詳。
纏う空気はどこか軽薄でありながら、同時に世界そのものを掌の上で転がしているかのような、底知れぬ神性を隠し持った男
――悪役作者、塩塚和人。
「いや~どうも。作者です」
軽妙な、どこか気怠げですらある声が、静寂に満ちた魔王城の庭園に響き渡った。
そこにいたのは、決して一人ではなかった。
整えられた純白の東屋のテーブル席には、ひとりの少年が腰掛けていた。
見ればあどけなさを残す、しかしどこか場違いなほど落ち着き払った顔立ちの高校生
――早坂行人(はやさか ゆきと)、十八歳。
彼は唐突に出現した神の如き存在を見ても、過剰に慌てることなく、
しかし敬意を払うように静かに立ち上がった。
「……作者さんですか。いつもお世話になっています」
行人のお辞儀は、非常に丁寧で、かつどこか達観していた。
数奇な運命によってこの異世界に引きずり出され、過酷な運命の渦中にいながらも、
彼はこの世界の「仕組み」を本能的に理解しているかのように落ち着いている。
塩塚はふっと薄い笑みを浮かべ、歩み寄りながら軽く手を振った。
「おお、丁寧な挨拶、よろしいですね。いやあ、こっちの世界の空気はどうですか? 快適ですか、それとも息苦しいですか?」
「そりゃあ、日本のコンビニの弁当が恋しいですけど……まあ、悪い気はしませんよ。
色々と賑やかですし」
行人は苦笑しながら、自分の周囲を包囲するような視線にちらりと目をやった。
その視線の先――庭園の縁や、夜闇に溶け込む古木の枝の上には、
三対の鋭い殺気が灯っていた。
エルフたちだ。
それも、ただのエルフではない。
人間を遥かに超越した戦闘能力と、この世界でも最上位の称号を持つ、選りすぐりの猛者たち。
藍色のポニーテールを夜風に揺らし、まるで風そのもののように足音もなく佇むハイエルフ――アイリス・ストームライダー。
彼女の紫苑色の瞳には、剥き出しの警戒心と、わずかな敵意が宿っていた。
若草色のショートヘアと瑞々しいエメラルドの瞳を持つ、ハーフエルフの狩人――ベル・リーフウィスパー。
彼女はすでに指先を愛用の弓の弦に添え、いついかなる時でも放てる態勢をとっている。
そして、赤褐色のウェーブヘアと琥珀色の瞳を持つ、ダークエルフの剣士――ソフィア・ローズハート。
その全身から立ち昇る闘気は、空間そのものを切り裂きそうなほど熱を帯びていた。
三人のエルフ。
彼女たちは全員、ひとりの人間――早坂行人に異様なまでの執着と、深い愛情を注いでいる。
いわゆる、ハーレムの主、あるいは命を賭して守るべき絶対の存在として行人を捉えていた。
だからこそ、突如として現れた「すべての設定を握る神(作者)」である塩塚和人が、
行人に危害を加えるのではないかという恐怖と焦燥が、
彼女たちの理性をギリギリのところで揺さぶっていたのだ。
◇
「おい、そこの不審者……!」
沈黙を破ったのは、ハイエルフのアイリスだった。
彼女は風を纏い、一瞬にして塩塚の数メートル手前に着地した。
その足音は一片の羽毛よりも軽く、しかし着地した瞬間の衝撃波が周囲の小石を弾き飛ばした。
アイリスの藍色のポニーテールが怒りで逆立ちそうになっている。
彼女の胸中にあるのは、ただひとつの恐怖
――「この男が、私たちの愛する行人を、また勝手な展開で別の場所に連れ去ってしまうのではないか」という不安だった。
「風使いのアイリス・ストームライダーさん、でしたっけ。
そんなに睨まないでくださいよ。
私、これでも平和主義なんですから」
塩塚は肩をすくめ、ポケットに両手を突っ込んだままヘラヘラと笑ってみせた。
「ふざけるなっ! お前がこの世界の設定をいじり、
行人に理不尽な試練を課している張本人なのだろう!? 答えてみろ、
お前は……行人に何をするつもりだっ!」
ベルがすかさず背後から回り込み、若草色のショートヘアを揺らしながら鋭く詰め寄る。
彼女のエメラルドの瞳には、愛する男を奪われるかもしれないという切実な恐怖が滲んでいた。
「そうよ! 私たちはね、行人がどれだけこの世界で苦労してきたかを知っているの。
これ以上、勝手な筋書きで彼の平穏を脅かすというなら、たとえ『作者』とやらの神であっても、
この私たちの刃が通じないか試させてもらうわ!」
ソフィアが抜刀一閃の構えを取り、赤褐色のウェーブヘアを揺らめかせながら低い声で威嚇した。
ダークエルフ特有の情熱的で激しい気性が、いまや爆発寸前だった。
三方向から向けられる、世界最高峰の殺気と魔力。
常人であれば、そのプレッシャーだけで心臓が麻痺して倒れるほどの威圧感。
しかし、塩塚和人はまばたきひとつせず、ただ「やれやれ」といった表情で首を傾げた。
「いやいや、落ち着いてくださいって。
私はね、ただちょっと、物語の進捗具合を確認しに来ただけなんですよ。
あなたたちみたいに、行人にベタ惚れしているヒロインたちがちゃんと機能しているか、ね」
「なっ……何をふざけたことを……!」
「本当のことですよ。
私はね、早坂行人に何か意地悪をしてやろうなんて考えてません。
ほら、彼は彼でこの世界で頑張ってるんだからさ。
野暮な介入はしませんよ。
今回は、ただの『顔見世』、挨拶回りのようなものです」
塩塚のその軽妙な、しかしどこか絶対的な真実を含んだ口ぶりに、
三人のエルフは一瞬言葉を詰まらせた。
嘘をついている目ではない。
この男にとって、行人の存在はチェスの駒というよりも、
むしろ「面白いから自由に動かしているペット」に近い。
害意はないが、予測もつかない。
だからこそ厄介なのだが……少なくとも、「今すぐ行人に危害を加えるわけではない」
ということは、彼女たちにも直感的に理解できた。
「……本当に、何もしないのね?」
アイリスが疑わしげな目を向けながら、なおも剣呑な空気を解かない。
「ええ、誓って。
私はただ、彼が元気にやってるのを確認して、ちょっと雑談したかっただけです。
ねえ、行人くん? 僕が何か変なこと言ったかい?」
振られた行人は、苦笑しながら両手を軽く上げた。
「まあ……アイリス、大丈夫だよ。この人、口は軽いけど、
いまのところ俺に変な命令はしてきてないからさ。
それに、怒らせたら何されるか分かったもんじゃないし……」
行人のその現実的な判断を聞いて、三人のエルフは小さく息を吐いた。
張り詰めていた糸が緩み、アイリス、ベル、ソフィアの順に、それぞれが武器を収め、ほっと胸をなで下ろす。
彼女たちの表情に浮かんだ安堵の色は、普段の凛とした戦士のものとは似ても似つかない、
ただの「愛する男を守り抜いた少女」のそれだった。
◇
騒動が収まったその時だった。
庭園の影から、ひときわ重厚で、かつ神秘的なマナの波動が広がった。
空気が凍りつくような冷たさと、太陽の光をも飲み込むような圧倒的な闇の気配。
「……ここが、騒がしいと聞いてやってきたが……」
低く、鈴を転がすような、それでいて世界を統べる者にしか出せない絶対的な威厳を含んだ声。
そこに立っていたのは、魔王ルナリア・エル・ミストヴァルト。
漆黒と銀の刺繍が施された高貴なドレスをまとい、幾百年もの間、
魔導の極みを追求してきた彼女の周囲には、
目に見えるほどの魔力の粒子がオーロラのように揺らめいていた。
エルフの魔王でありながら、この世界のすべての魔獣や魔族の頂点に君臨する存在。
アイリスたち三人のエルフも、流石にルナリアの登場には背筋を伸ばし、
一歩引いた位置で敬意を示した。
「……魔王様」
「ほう、人間界の……いや、『外側』の存在か」
ルナリアの紫苑色の瞳が、冷徹に塩塚和人を捉えた。
彼女は、この世界の裏側に何者かが干渉していることを本能的に察知していた。
だからこそ、警戒の度合いはエルフたち以上だった。
しかし、塩塚和人は――そんな魔王の威厳など、
道端の石ころ程度にしか考えていないかのように、
ふらふらとルナリアの傍まで歩み寄った。
「ちょっ、お前、何をする気だ……!」
背後でアイリスが息を呑み、ソフィアが再び剣の柄に手をかけようとしたが、もう遅かった。
塩塚はルナリアの目の前にまで達すると、一切の躊躇なく、その白く美しい手を取った。
そして、周囲の時が完全に停止したかのような静寂の中、ルナリアの滑らかな手の甲に、
優しく、しかし確かな温もりを持つキスを落としたのだ。
「――っ!?」
ルナリアの全身から、先ほどまでの冷徹な魔王の威厳が完璧に蒸発した。
「なっ……、はっ……? いま、貴様、何をした……っ!?」
彼女の顔面は、一瞬にしてトマトのように真っ赤に染め上がり、耳たぶまでがカッカと熱を帯びた。
古の魔導を極め、深淵の森に君臨し、数多の強者を冷酷に葬ってきた魔王が、
人生で一度も経験したことのない「少女としての致命的な動揺」を露わにした瞬間だった。
ルナリアは引き抜こうとした手をそのまま固まらせ、両目をぐるぐると回し、
完全に挙動不審に陥っていた。
「ちょっとした挨拶ですよ。魔王様へのね」
塩塚はケラケラと楽しそうに笑いながら、ルナリアの硬直した手をそっと離した。
「う、うそでしょ……? 挨拶だけって……なんなのだ、貴様は……! 私をなんだと思っているのだ……!」
ルナリアは両手で自分の赤くなった頬を覆い、たどたどしい足取りで数歩後ずさった。
その目は潤み、完全に調子を狂わされている。
普段の威厳はどこへやら、ただの年頃の少女のような慌てぶりだった。
塩塚は満足げにうなずき、苦笑しながら言った。
「いやあ、魔王って可愛いですね。外見はあんなに威厳があるのに、
中身は案外初心(うぶ)なんだから、物語の書きがいがあるってもんですよ」
「かわ、い……っ!? 私が可愛いだと……!? き、貴様、覚えておれ……!」
ルナリアはもはや怒る気力すら失い、恥ずかしさのあまり真っ赤になりながら背中を向けた。
塩塚は振り返り、庭園の隅でポカンと口を開けて見ていた早坂行人に軽く手を振った。
「それじゃあ、行人くん。今回はこの辺で失礼します。
また今度、面白い展開が思いついたら、勝手に採用しますね。
それでは、帰還します」
その言葉を最後に、塩塚和人の姿が、まるで霧が晴れるようにスッと消え去った。
残されたのは、静まり返った庭園と、顔を真っ赤にして地団駄を踏む魔王ルナリア、
そして呆気に取られる早坂行人と、複雑な表情を浮かべる三人のエルフたちだった。
「……何だったんだ、あの作者……」
行人の呟きが、静かな異世界の風にかき消されていくのだった。
https://kakuyomu.jp/works/2912051606845985742 (本作)