読み切り
第1章:ぬくもりの領域
魔導都市アルテロの秋は、乾いた風とともに石造りの街並みを冷やしていく。
「フィオナ先輩……寒い……」
高等魔導学院の図書室の隅、陽だまりが射し込む大きな窓辺の席で、十六歳のナディアは隣に座る少女の腕を抱きしめた。ナディアの豊かな胸元がフィオナの腕にしがみつくように密着し、やわらかな体温が生地越しに伝わっていく。
「もう、ナディア。ここは図書室だよ。勉強に集中しないと、次の魔導回路の試験で落ちてしまうよ?」
フィオナは困り顔を作りながらも、ナディアの頭を優しく撫でた。一年年上のフィオナは、艶やかな漆黒の髪を背中で切り揃え、凛とした知性を感じさせる美しい少女だ。しかし、ナディアに向けられる眼差しだけは甘く、どこまでも深い庇護欲に満ちている。
「フィオナ先輩が抱きしめてくれれば、寒くないし、勉強もがんばれます。……離れないでくださいね?」
「離れないよ。可愛いナディア。あなたは本当に私がないとダメなんだから」
フィオナはナディアの甘い声に甘やかすような笑みを返し、細い腕でナディアの背中をしっかりと抱き寄せた。ナディアは満足そうにフィオナの首元に顔をうずめ、その香りを胸いっぱいに吸い込む。
ナディアにとって、フィオナの温もりはこの世界の何よりも優先されるべきものだった。両親を早くに亡くし、唯一の肉親である兄のアトラスとともに生きてきたが、学院に入学してフィオナに出会ってから、ナディアの世界の真ん中はすべてフィオナで占められるようになった。
「ナディア、フィオナさん。またここで抱き合っているのか」
呆れたような声が頭上から降ってきた。見上げると、ナディアの実の兄であるアトラスが、数冊の魔導書を腕に抱えて立っていた。十七歳のアトラスは学院でも優秀な剣魔士として知られ、妹思いの真面目な青年だった。
「兄さん……邪魔しないで。私はいま、フィオナ先輩から魔力を補給しているところなの」
ナディアはフィオナの腕をさらに強く握りしめ、アトラスを少しだけ牽制するように見上げた。
「魔力補給って……ただ甘えているだけだろう。フィオナさん、いつも妹が迷惑をかけてすみません」
アトラスは申し訳なさそうに言ったが、その視線はフィオナの顔に固定されていた。耳の先がわずかに赤い。
「ううん、気にしないでアトラスくん。ナディアは本当に可愛くて、私にとっても癒やしだから。……アトラスくんも、放課後の鍛錬、頑張ってね」
「あ、ああ! ありがとう、フィオナさん。……それじゃ、俺はあっちの席で勉強するから」
アトラスは少しぎこちなく微笑むと、背中を向けた。
その一連のやり取りを、ナディアの瞳は見逃さなかった。アトラスのフィオナを見る目。それは単なる感謝ではなく、明確な『好意』だった。
ナディアの胸の奥で、冷たい澱のようなものが沈み込んでいく。
(兄さんは優しい。フィオナ先輩が私を大事にしてくれることに感謝しているのも本当。でも……だめ。フィオナ先輩をそんな目で見ないで)
ナディアはフィオナの服の裾をぎゅっと掴んだ。フィオナはナディアのその変化に気づくことなく、微笑みながら彼女の頬に自分の頬をすり寄せた。
「ナディア? どうしたの、急に身体を固くして」
「……なんでもありません。ただ、フィオナ先輩が誰のものにもなってほしくないなって、思っただけです」
「ふふ、私はナディアのお姉さんなんだから、ずっとナディアの味方だよ」
『お姉さん』という言葉に、ナディアは微かな違和感を覚えた。フィオナ先輩は私のことを可愛い妹だと思っている。でも、私は『妹』なんかになりたいわけじゃない。
私だけを、私だけのフィオナ先輩でいてほしい。
第2章:交錯する視線と嫉妬
学院の中庭の噴水広場は、昼休みになると多くの生徒たちで賑わう。
「フィオナ先輩、あーんしてください」
ナディアは自分で焼いてきた甘いベリーのクッキーを、フィオナの唇の前に差し出した。
「もう、ナディアったら。自分で食べられるよ?」
「だめです。私があげたいんです」
ナディアが上目遣いでおねだりすると、フィオナは観念したように息をつき、小さな口を開けてクッキーをかじった。
「美味しい……ナディアはお菓子作りが本当に上手だね」
「フィオナ先輩のためだけに作ってきたんですから!」
笑顔を弾けさせる二人のもとへ、歩み寄ってくる二つの影があった。アトラスと、その隣にぴったりと寄り添う少女、バニラだった。
十六歳のバニラは、ウェーブのかかった金髪を揺らし、愛らしい容姿をしていたが、その瞳には常に鋭い光が宿っていた。彼女はアトラスに熱烈な恋心を抱いており、アトラスが視線を向ける先――フィオナに対して、激しい敵意を隠そうとしなかった。
「アトラス様、今日の昼食はこちらのベンチでご一緒にいかがですか?」
バニラはアトラスの腕に自分の腕を絡め、甘い声を出す。しかし、アトラスの視線はナディアたちの方を向いていた。
「ああ……でも、ナディアたちの席も空いているみたいだし、一緒でもいいか?」
アトラスがフィオナの方へ歩み寄ろうとすると、バニラの表情が不快そうに歪んだ。
「アトラス様! どうしていつもあの人たちのところへ行くのですか? ナディアさんにはフィオナ様がいらっしゃいますし、アトラス様が気を遣う必要はありませんわ」
「そうじゃないんだ、バニラ。フィオナさんにはいつもナディアがお世話になっているから、お礼も言いたいし……」
「お礼ならもう十分でしょう!? それに、フィオナ様だって……」
バニラはフィオナを睨みつけ、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
「フィオナ様も不気味ですわ。妹扱いにしてナディアさんをベタベタと手元に置き目障りですし、アトラス様の視線を惹きつけて楽しんでいるのではありませんか?」
「バニラ! 言葉が過ぎるぞ!」
アトラスが声を荒らげたが、ナディアの反応はそれよりも早かった。
「……撤回してください」
ナディアの低く冷ややかな声が、周囲の空気を凍りつかせた。いつものおっとりとした甘い声は影を潜め、暗い情念が宿った瞳でバニラを見つめ返した。
「フィオナ先輩を悪く言わないで。バニラさん、あなたが兄さんを好きなのは勝手だけど、フィオナ先輩に言いがかりをつけるなら……許しません」
「な、なんですって……!? あなたこそ、いつまでもフィオナ様にしがみついて、アトラス様の邪魔ばかりして! アトラス様がフィオナ様に気があるからって、妹の立場を利用して間を取り持とうとしているんじゃないでしょうね!?」
「そんなわけないでしょ!!」
ナディアは立ち上がり、バニラを一すじの怒りで射抜いた。
「私は! フィオナ先輩が誰かと付き合うなんて、絶対に嫌! 兄さんだろうと、誰だろうと関係ない! フィオナ先輩は私だけのものなの!」
「ナディア……?」
フィオナが驚いたようにナディアを見上げた。アトラスも絶句している。
ナディアはハッと息を呑み、自分の口を塞いだ。言ってしまった。フィオナの前で、自分の隠していた汚い独占欲を露わにしてしまった。
「……ごめんなさい、フィオナ先輩。私、ちょっと冷たいお水飲んできます」
ナディアはフィオナの返事を待たずに、逃げるようにその場を走り去った。
「あ、ナディア……!」
フィオナが立ち上がり、後を追おうとしたが、アトラスがそれを制した。
「フィオナさん、俺が行きます。妹の失礼を許してください……バニラも、もう行こう」
アトラスは困惑と焦りを浮かべながら、ナディアが消えた校舎の方へと駆け出していった。残されたフィオナは、ナディアが座っていた温もりの残るベンチを見つめ、ぽつりと呟いた。
「私だけのもの……?」
その胸の中に、これまで『可愛い妹』に対するものとは異なる、怪しく甘いざわめきが生まれ始めていた。
第3章:侵食する独占欲
校舎の裏手、古い魔導具が置かれた倉庫の影で、ナディアは壁に背中を預けて膝を抱えていた。
(言ってしまった……フィオナ先輩に、気味が悪いって思われたかもしれない。引かれたかもしれない……)
涙が零れそうになるのを必死で耐えていると、足音が近づいてきた。
「ナディア」
現れたのはアトラスだった。彼は妹の隣にしゃがみ込み、心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? バニラの言い方も悪かった。あいつには後で厳しく言っておくから」
「……いいの。バニラさんの言ったことは、半分本当だから」
ナディアは膝に顔を埋めたまま、掠れた声で言った。
「私、兄さんがフィオナ先輩を見ているのが嫌だった。兄さんだけじゃなく、世界中の誰も……フィオナ先輩に触れてほしくないの。フィオナ先輩の優しさも、笑顔も、全部私だけのものにしたい……これって、おかしいよね?」
アトラスは静かに息を吐き、妹の頭に手を置いた。
「おかしくはないさ。お前はフィオナさんに救われたんだからな。……でもな、ナディア。フィオナさんにもフィオナさんの人生がある。いつかは誰かと恋をして、結婚して、自分の家庭を持つかもしれない。俺は……できればその相手になりたいと思っているけれど、お前がいつまでもフィオナさんに依存していたら、フィオナさんを縛り付けることになるぞ」
その言葉は、ナディアの心に鋭い針となって突き刺さった。
『いつかは誰かと恋をして、結婚して』
嫌だ。そんな未来、想像するだけで息が止まりそうになる。フィオナ先輩が自分以外の誰かを愛し、誰かの腕の中で笑う? そんなものが訪れるくらいなら――
「兄さん……私を諭すようなこと言わないで」
ナディアは冷たい目でアトラスを見つめた。
「兄さんはフィオナ先輩が好きだから、そうやって私を遠ざけたいだけでしょ? フィオナ先輩を私から奪おうとしないで!」
「ナディア! 俺は奪うつもりなんて……!」
「来ないで!」
ナディアはアトラスの手を振り払い、再び走り出した。
放課後、夕空が茜色に染まる頃、ナディアは一人で魔導実験室に残っていた。心の中の黒い感情を打ち消すように、没頭して魔導回路の調整作業を続ける。
しかし、集中しようとすればするほど、アトラスの言葉が頭の中でリフレインする。
(嫌……嫌……! フィオナ先輩を誰にも渡さない。私から奪わせない。どうすればいい? どうすればフィオナ先輩は、永遠に私のものになってくれるの……?)
過剰な感情が、ナディアの魔力回路を暴走させ始めていた。手元にあった不安定な魔力結晶が怪しく明滅し、バチバチと青い火花を散らす。
「あ……」
危険だと理解した時には、すでに遅かった。過剰に注ぎ込まれた魔力によって結晶が限界を迎え、高熱の衝撃波が弾け飛んだ。
「きゃああっ!?」
爆風とともに棚が倒れ、炎と煙が狭い実験室に充満する。ナディアは倒れてきた木製棚の下敷きになり、足を強く打って身動きが取れなくなってしまった。
「痛い……誰か……!」
煙が肺に入り、意識が遠のいていく。死の恐怖が迫る中、ナディアの頭に浮かんだのは、ただ一人の名前だった。
(フィオナ先輩……助けて……フィオナ先輩……!)
その時、激しい音とともに実験室の扉が叩き割られた。
「ナディアーーっ!!」
煙を押し分けて飛び込んできたのは、息を荒らげ、髪を振り乱したフィオナだった。
第4章:崩壊と依存の決壊
「フィオナ……先輩……?」
「ナディア! よかった、無事ね!?」
フィオナは迷わず炎と煙の中に飛び込み、重い木製棚を魔力で吹き飛ばした。そしてナディアを力強く抱き上げる。
「痛むところはある!? 喋らないで、今すぐ外へ――」
「フィオナ先輩……!」
ナディアはフィオナの首に必死でしがみついた。煙の恐怖ではなく、フィオナが自分を助けに来てくれたという歓喜で、胸が張り裂けそうだった。
フィオナはナディアを抱えたまま廊下へ脱出し、安全な中庭の草の上に彼女を優しく横たえた。
「はぁ……はぁ……ナディア、本当に無事で……よかった……!」
フィオナはその場に膝をつき、激しく肩を揺らして涙を流した。いつも冷静で凛としているフィオナが、なりふり構わず泣いている。
「私、あなたが死んじゃったらどうしようって……もしあなたを失ったら、私……!」
「フィオナ先輩……」
ナディアは起き上がり、フィオナの涙を細い指で拭った。そして、自分の想いがもう抑えきれないことを悟った。
「私……さっき兄さんに言われたんです。フィオナ先輩はいずれ誰かと付き合って、私から離れていくって。それが怖くて、苦しくて、魔力を暴走させてしまいました」
フィオナはハッとしてナディアを見た。
「ナディア、あなたは……」
「私を妹なんて思わないでください!」
ナディアはフィオナの肩を掴み、顔を近づけた。二人の吐息が触れ合うほどの距離。ナディアの瞳には、狂気にも似た深い愛着が宿っていた。
「私、フィオナ先輩が大好きなんです。兄さんにも、誰にも渡したくない。フィオナ先輩の全部が欲しい。……私を閉じ込めて、フィオナ先輩だけのものにしてください。それとも、私がフィオナ先輩をどこか誰も来ない場所に閉じ込めましょうか?」
甘く、毒を含んだ言葉。
普通の人間なら恐怖を覚えるような重すぎる求愛。しかし、フィオナの瞳に浮かんだのは恐怖ではなく、背徳的な恍惚感だった。
フィオナはずっと、自分を頼り切ってくるナディアを「可愛い妹」として愛していた。だが、その根底にあったのは、ナディアを自分なしでは生きていけない存在にしたいという『支配欲』であり『独占欲』だったのだ。
ナディアの過剰な依存が、フィオナの中に眠っていた歪んだ愛を完全に覚醒させた。
「……そうだったのね、ナディア」
フィオナはナディアの頬を両手で優しく包み込み、耳元で甘く囁いた。
「私も……ずっとあなたを私だけのものにしたかった。誰にも見せたくなかった。アトラスくんがあなたに近づくのも、本当は嫌だったのよ?」
「フィオナ先輩……」
「いいよ、ナディア。私はどこにも行かない。誰のことも愛さない。あなただけのフィオナ先輩になってあげる。だから……あなたも、私のためだけに生きて?」
ふたりの唇が自然と重なった。
それは清純な少女たちの温もりを超えた、互いを縛り合い、呑み込み合うような、濃厚で歪んだ契約の接吻だった。
第5章:甘い檻の中で
数日後。
魔導都市の喧騒から少し離れた、フィオナの個人邸宅。深い森に囲まれたその屋敷の二階の部屋で、ナディアは柔らかいベッドの上に座っていた。
足首には、繊細な銀細工の魔導鎖が繋がれている。それは身体を拘束するためのものではなく、ナディアの魔力をフィオナの魔力と常時同調させ、居場所を完全に把握するための『繋ぎ留めの装飾』だった。
「ナディア、スープが冷めてしまうよ? あーんしてあげようか」
フィオナが優しい微笑みを浮かべながら、スプーンをナディアの口元へ運ぶ。
「はい……フィオナ先輩」
ナディアは嬉しそうに微笑み、フィオナの手からスープを受け味わう。
あの日以来、ナディアは学院を休学し、フィオナの屋敷で二人きりの生活を送っていた。アトラスやバニラが何度か訪ねてきたが、フィオナは「ナディアは事故のショックで療養が必要だから、誰とも会わせられない」と言って冷たく追い返していた。
もう、誰の邪魔も入らない。
二人はお互いしか見えない、甘く狭い檻の中で、お互いを貪るように愛し合っていた。
「フィオナ先輩、ずっとこうして抱きしめていてくれますか?」
「ええ、もちろんよ。私の愛しいナディア。死ぬまで、ううん、死んでも離してあげないからね」
フィオナはナディアを強く抱きしめ、その豊満な胸元に顔をうずめた。ナディアもまた、フィオナの背中に手を回し、爪が食い込むほど強く抱き返した。
二人の愛は、行き過ぎていた。世間一般の倫理や正解からは遠く外れていた。しかし、この密閉された世界において、二人を裂くことができるものは何一つ存在しなかった。
外では冷たい秋の風が吹き荒れていたが、二人が分け合う温もりだけは、永遠に熱を失うことはなかった。
(完)