傷だらけの少女を拾った領主が、溺愛するつもりはなかった

kuni

第1話

 石畳は、冷たかった。

 まるで氷の板に肌を押し当てられているようだ。


 雨上がりの路地裏には、独特の臭気が淀んでいる。泥と、腐りかけた野菜の屑、そして湿った石の匂い。

 夕暮れの薄暗い影が、路地の窪みに溜まった水溜まりを黒く染めていた。


 その中央で、少女は膝をついていた。

 名前は、イリス。

 年は十六。


 痩せた肩を覆うエプロンは、元の色が分からないほど汚れている。あちこちに継ぎが当てられ、布地そのものが悲鳴を上げているようだった。

 足元には、無惨に砕け散った木桶の破片が転がっていた。

 中に入っていた水が、イリスの膝を濡らし、靴の中まで染み込んでくる。


「……ごめんなさい。すぐ、片づけます」

 声は小さく、かすれていた。

 喉が張り付き、うまく言葉が出ない。


 誰に向けた謝罪なのか、本人にも分からなかった。ただ、条件反射のように口から出る。

 謝らなければならない。

 許しを乞わなければならない。

 そうでなければ――もっと酷いことになる。


「まったく……だから下働きは」

 頭上から降ってきたのは、苛立ちを含んだ低い声だった。

 革靴の爪先が、わざとらしく桶の破片を蹴り散らす。

 カラン、と乾いた音が路地に響いた。

 市場の商人だった。恰幅の良い腹を揺らし、侮蔑の眼差しで見下ろしている。


 その周囲で、数人の男たちが面白がるように笑っていた。

 彼らにとって、これは退屈な日常の余興に過ぎない。

「ぼんやり突っ立ってるからだ。ほら、早くしろ。通行の邪魔だ」

「……はい、すみません……」

 石畳に膝をついたまま、イリスは震える手で破片を拾い集める。


 ささくれた木片が指先に刺さった。

 鋭い痛みが走り、じわりと赤い血が滲む。

 けれど、顔には出さない。


 ――泣いてはいけない。

 涙を見せれば、彼らはもっと喜ぶ。


 ――言い返してはいけない。

 言葉を持てば、生意気だと殴られる。


 ――迷惑をかけてはいけない。

 私は、生きているだけで邪魔なのだから。


 幼い頃から、何度も何度も叩き込まれてきた呪いのような言葉が、イリスの思考を麻痺させていく。

 痛覚を切り離せ。

 感情を殺せ。

 そうすれば、嵐はいつか過ぎ去る。


 ただの石ころになればいい。

 そう念じながら、血の混じった泥水を拭おうとした、その時だった。


「――そこまでだ」


 低く、しかし驚くほどよく通る声が、路地の空気を鋭利な刃物のように断ち切った。

 ざわめきが、一瞬で止む。

 男たちの下品な笑い声も、商人の罵声も、喉元で凍りついたように消え失せた。


 あまりの静寂に、イリスはおずおずと顔を上げる。

 路地の入口に、一人の男が立っていた。


 逆光を背負い、その表情ははっきりと見えない。

 けれど、纏う空気が異質だった。

 薄汚れた路地裏には似つかわしくない、研ぎ澄まされた鋼のような気配。


 黒を基調とした上質な外套。装飾は極限まで削ぎ落とされているが、生地の光沢だけでそれが最高級品だと分かる。

 腰に帯びた剣の柄には、銀の意匠が施されていた。

 ただ立っているだけで、周囲の風景さえも従えているような、圧倒的な「格」の違い。


 この地を治める領主――アレイン・フォン・グラード。

 その名を知らぬ者はいない。


「み、道を塞いでいるのは、誰だ……」

 商人の声が裏返った。

 先ほどまでの傲慢さは消え失せ、顔色が青を通り越して土気色に変わっていく。

 アレインは一歩、また一歩と近づいてくる。

 足音すら、規則正しく、美しい。


「い、いえ……! この娘が不注意で桶をひっくり返しまして……その、始末をさせていたところで……」

 商人は必死に言い訳を並べ立て、媚びへつらうような笑みを浮かべる。

 だが、その言葉は途中で途切れた。


 アレインの視線が、商人ではなく、膝をついたままの少女へと向けられたからだ。

 泥に汚れた裾。

 乱れた髪。

 そして、血の滲む指先。


 アレインの眉が、わずかに動いた。

 胸の奥に、ざらりとした違和感が走る。

 それは不快感ではなく――もっと別の、言葉にし難い焦燥のようなものだった。


「名は」

 短い問いかけだった。

 イリスはびくりと肩を震わせる。

 まさか、自分に声がかかるとは思わなかった。


「……え?」

「君の名だ」

 再度、問われる。

 怒声ではない。だが、逆らうことを許さない響きがある。

 イリスは唇を噛み、消え入りそうな声で答えた。


「……イリス、です」

「そうか。イリス」

 アレインは、その名を口の中で転がすように確かめてから、短く言った。

「立て」

「……?」

「君に言っている」


 恐る恐る、イリスは立ち上がろうとする。

 だが、長時間冷たい石畳に跪いていた足は強張り、うまく力が入らない。

 よろめきかけた体を、とっさに庇おうとして――やめた。

 汚れた手で、この高貴な人物に触れるわけにはいかない。


 その躊躇いをどう受け取ったのか、商人が横から口を挟もうとした。

「あ、あの閣下。そのような薄汚い娘に構わずとも――」

 アレインは、商人を一瞥もしなかった。

 ただ視線ひとつを走らせる。

 それだけで、商人は喉を締め上げられたかのように黙り込んだ。


「桶の代金は、私が支払う」

「な……!?」

「人を使うなら、道具を整えるのも主人の責任だ。古びた桶を使わせていたのだろう」

 淡々とした指摘に、商人がぎくりと体を強張らせる。

「そ、それは……」

「だが」

 アレインの声が、半音下がった。

 温度が消える。

 背筋が凍るような、絶対零度の声音。


「人を辱める理由には、ならない」


 その言葉は、静かだった。

 怒鳴り声よりも遥かに重く、その場にいる全員の心臓を鷲掴みにした。


「今日は引け」

「は、はい……! 申し訳、ありませんでした……!」

 商人と取り巻きの男たちは、逃げるように去っていく。

 彼らにとって、領主の不興を買うことは死活問題だ。一秒でも早く、この場から消え失せたかったのだろう。


 路地に取り残されたのは、二人だけだった。

 風が通り抜け、イリスの濡れたエプロンを揺らす。


「……」

 イリスは、どうしていいか分からず立ち尽くしていた。

 助けられた、という実感が湧かない。

 これは夢で、目が覚めればまた罵声が降ってくるのではないか。


「怪我は」

 不意に、目の前にアレインが立っていた。

「い、いえ……大丈夫です。平気、です」

 反射的に答えてから、気づく。

 本当に大丈夫かどうか、考えたこともなかった。

 痛いのが当たり前だったから。


「そうか」

 アレインは懐から白い布を取り出し、差し出した。

 上質な絹のハンカチだ。刺繍が施されている。

「血が出ている」

 イリスの手が止まる。

 自分の手を見る。泥と血で汚れ、爪の間まで黒ずんでいる。


 対して、差し出された布は、雪のように白かった。

「……あの」

 受け取れない。

 汚してしまう。

 イリスが躊躇っていると、アレインは強引に手を取り、その布を押し付けた。


「命令ではない」

 その言い方が、不思議と優しかった。

 布を受け取り、指を押さえる。

 白い絹が、見る見るうちに赤く染まっていく。

 それでも、アレインは顔をしかめなかった。


 血が止まるのを見て、イリスの胸の奥がわずかに緩んだ。

 痛みが引いていくのと同時に、張り詰めていた糸が切れそうになる。


「君は……ずっと、ああいう扱いを受けてきたのか」

 責める声音ではなかった。

 ただ、事実を確認するような、静かな問い。

 イリスは、少しだけ迷い、そして小さく頷いた。


「……私が、役に立たないから」

 それは、イリスにとっての真実だった。

 不器用で、のろまで、気が利かない。

 だから叩かれる。だから怒鳴られる。

 全て、自分が悪いのだと。


 その瞬間。

 アレインの中で、何かが静かに、しかし確実に決まった音がした。

 理屈ではない。

 打算でもない。

 ただ、この目の前の光景を――少女の自己否定を、許しておけなかった。


「それは違う」

 はっきりとした声だった。

 イリスは、思わず顔を上げた。

 夕暮れの逆光の中、アレインの瞳が、まっすぐにイリスを射抜いていた。


「役に立たぬ人間など、この世にいない」


 風が止まった気がした。

 その言葉は、イリスの乾いた心に、熱い塊となって落ちてきた。

 真正面から、そんな言葉を向けられたのは――

 生まれて初めてだった。


 否定してほしかったのかもしれない。

 誰かに、たった一人でいいから。

 「お前はここにいていい」と、言ってほしかったのかもしれない。


「私の館へ来い」

「……え?」

 唐突な言葉に、思考が追いつかない。

「話がある。君のための話だ」


 アレインは、手を差し伸べることはしなかった。

 ただ、背を向けて歩き出す。

 ついて来い、と背中で語るように。


 イリスは一度だけ振り返り、砕けた桶と、薄暗い路地を見た。

 ここに戻れば、また明日も同じ日が続く。

 痛くて、寒くて、惨めな日々が。


 前を見る。

 黒い外套の背中が、遠ざかっていく。

 ――行かなきゃ。

 直感が告げていた。

 あの背中を見失えば、二度と、光は掴めない気がした。


 イリスは濡れた靴で地面を蹴り、走り出した。

 拒む、という選択肢は、もう頭になかった。


 夕暮れの光が、二人の影を長く、長く伸ばしていく。

 石畳に落ちる影が、一つに重なりかけて、また離れる。


 ――この日を境に。

 灰色の世界に閉じ込められていた少女の運命は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。


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