第3話
フロアの真ん中に置かれた、艶めくグランドピアノはテレビなんかで見たよりもいっそう、美しかった。
もちろん見たことがなかったわけじゃないが、今からこのピアノの鍵盤を触れるんだという許可が、僕をミステリアスな興奮へと誘った。
その興奮の後ろ、どこか平常心の僕は思い出していた。ーーじいちゃんのお古は柔らかい色味をした、アップライトピアノだった。鍵盤は琥珀のようにまろやかな色を纏い、奏で始めたときから次の音をねだるように指に吸いついてくるような感覚があった。出会ったときから、いちばんの友だちだと感じていた。
鍵盤蓋はひんやりとしていて、しっとりとしていた。そっと開け、赤いフェルト布を剥がす。現れた鍵盤は白く美しく、おとぎ話に出てくるお姫様のようだった。そっと触れると音はかたく、どこかつれなくて僕はその感覚が新鮮で気に入った。ーー多分、僕の指先は緊張していたのだ。だからきっと音が空気と馴染まなかったんだ。
深呼吸ひとつ。譜面台に楽譜を預け、さっそく僕は練習を始めた。弾けるだけじゃだめだ。歌えなきゃ。
その晩、僕は"アップルボーイ"だなんてふざけたような名前で舞台に上がることになるだなんて、この時は知らなかった。
シルバームーンの開店は19時からだった。18時を過ぎた頃からぽちぽちとパフォーマーらしき、オーラを纏った人たちが顔を覗かせ始めた。
フロアの真ん中で練習する僕をまじまじと見る人もいたが、ほとんどは控室の方にまっすぐに消えていった。みな、自分の舞台がある。
「ハーイ、坊や。あんまりお遊びしてたら怒られるぞ」
「ハーイ、でも僕24歳です。今日、テキサスのサンアンジェロから来ました」
「ふぅん、24か。24には見えないけど。俺はベン・ワシントン。サックス奏者だ」
「よろしく」
「おう、よろしく。邪魔して悪かった。デビューステージみてやるよ」
「楽しみにしてて、きっと上手くやるから」
「上手くいくさ」
ベンは僕にウィンクをくれて、僕は笑ってこたえた。
さあ、もうすぐショーが始まる。
シルバームーンは腹を空かせたモンスターみたいに、どんどん人を飲み込んだ。22時も過ぎればフロアやカウンターはお客さんでいっぱいになっていた。この夜の空気さえもアルコールとタバコの酔いに身を任せているに違いない、そんな雰囲気だった。
ノリのいいジャズナンバーや、ガラスのように透き通った声のシンガー、ソウルフルなピアノマンーー僕はまるで空気にでもなったような気分だった。一滴たりとも飲んじゃいないのに、意識は全て舞台に注がれていた。僕は空気であり意識であり、肉体を失くしたような心地よい酔いが血液になって全身を巡っていた。
「さてお次はニュースター!アップル片手にやって来た、小さくとも生粋のカウボーイのお出ましだ!今夜はぜひ彼を覚えて帰ってくれ!アップルボーイが聴かせてくれるのはベット・ミドラーの"ローズ"!!」
ざわめきは収まらなかった。そして僕の指が鍵盤に触れた。
次の更新予定
2026年1月17日 17:00
Moon Walker バーニーマユミ @barney
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Moon Walkerの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます