第05話 片方だけ残ったイヤリング

四月下旬の夕方、湖畔道路に沿う遊歩道は、昼の光を少しだけ残していた。学校帰りの莉音は、歩く速度を一定に保ちながら、道の端を目で追っていた。昨日までの雨で、土の色が濃い。落ちているものが見えやすい日だ。



湖の匂いは湿った草と、遠くの藻の甘さが混ざっている。耳元で揺れるはずだった金具が片方だけになったと思うと、首筋がやけに軽い。軽いのに、落ち着かない。



白線のない細い道の脇で、金属が小さく光った。莉音は足を止め、しゃがむ。指先で拾い上げると、小さなイヤリングだった。片方だけ。透明な石が一つ、薄い銀の輪にぶら下がっている。触れると冷たく、誰かの耳の温度を思い出させる冷たさだった。



濡れた草の匂いが、靴の裏からふっと上がる。石の透明な面に、空の残りの光が一瞬だけ映り、すぐに消えた。その短いきらめきが、落とした人の焦りを代わりに言っているみたいで、莉音は袋を握る力を少しだけ強くした。



そのとき、近くのベンチで休んでいた小学生がこちらを見た。帽子を深くかぶった男の子で、手には枝の先に巻いた輪ゴム。何を作っているのか分からない。



「それ、宝石?」



男の子が目を丸くする。莉音は一瞬だけ戸惑い、袋に入れる前のイヤリングを手のひらで隠した。落とし物を見せびらかすのは違う。



「落とし物。持ち主を探す」



「じゃあ、交番!」



男の子が即答する。まっすぐすぎて、笑ってしまいそうになる。莉音は頷きながらも、頭の中で手順を組み立てた。交番に届けるのは正しい。けれど、いま一番近い交番は湖畔道路を渡った先にあり、その交差点には信号がない。今日、無理をして渡るのは本末転倒だ。



「交番は後で。まず、危なくない道で行ける方法を考える」



男の子は首を傾げ、輪ゴムを引っ張った。



「むずかしい」



「むずかしいけど、順番にする」



莉音が言うと、男の子は「ふーん」と言って、輪ゴムの作品に戻った。子どもの興味は短い。短いから、羨ましい。



莉音は鞄から小さなチャック袋を出し、イヤリングを入れた。袋の上に、油性ペンで「四月のある日 午後五時三十二分 湖畔遊歩道のベンチ横」と書く。出来事の欄を、ここで作る。気持ちの欄には「落とした人、困る」と書いた。困る、という言葉の中に、焦りも涙も入っている気がした。



「それ、落とし物?」



声がして顔を上げると、琉牙が立っていた。ジャージ姿で、首にタオル。息が整っていて、走った帰りなのに肩が上がっていない。琉牙は毎朝同じ順番で体を動かす、と噂で聞いたことがある。噂より先に、目の前の息の整い方が、その人の毎日を語っていた。



「うん。片方だけ」



莉音が袋を見せると、琉牙は頷き、袋の文字を読む。



「時刻まで書いた。いいね。探す人、安心する」



褒め方が短くて、余計な圧がない。莉音は少しだけ肩の力が抜けた。



そこへ、遊歩道の向こうから悠月が歩いてきた。エプロンではなく、上着を羽織っている。店の閉店後らしい。手には小さな懐中電灯。夕方でも薄暗い部分がある道を、照らしながら歩いていた。



「見回り?」



琉牙が聞くと、悠月は頷くだけで、懐中電灯の光を地面に落とした。光が円になり、そこに三人の足先が入る。立ち位置が自然に整う。悠月はその円の中に、イヤリングの袋が入るように少しだけ光をずらした。



「店の掲示板、使う?」



悠月が言う。質問だけ。押しつけない。



「使う。落とした人が来るかもしれない」



莉音が答えると、琉牙がふっと息を吐いた。深呼吸みたいな音だった。



「探すの、意外と体力いる。今日のところは、温かいの飲んでからにしよう」



言い方が、命令ではなく提案だった。莉音は頷き、三人で喫茶店へ向かった。



「ミント月」の掲示板は、入口の横にあった。樺月が貼った担当表の隣に、空白のスペースがある。悠月はそこを指で軽く叩き、袋の位置を決める。莉音が「落とし物 片方だけ残ったイヤリング」と書いた紙を作ろうとすると、悠月はペンの種類を二本出した。太い字用と、細い説明用。言葉を短くするための道具を、悠月は黙って用意する。



貼り終えると、紙は派手ではないのに目に入った。余白があるからだ。余白があると、人は止まる。莉音は自分のメモ帳にも「余白 止まる」と書いた。



紙を見た琉牙が、少しだけ笑った。



「『片方だけ』って、悲しいのにかわいい言い方だね」



「事実だから。片方だけ、残った」



莉音が真顔で言うと、琉牙は「うん、事実」と頷き、でも口元はまだ笑っている。悠月はペン先を止めずに、紙の下にもう一枚の白い紙を重ねた。背景が白いと、文字が読みやすい。



「特徴、書きすぎると、違う人が来るかも」



悠月が短く言った。莉音はハッとして、メモ帳を見た。透明の石、銀の輪、ぶら下がり。細かく書けば書くほど、善意のふりをした人に渡る危険が増える。逆に、何も書かなければ持ち主は気づけない。



莉音は出来事と気持ちを分けるみたいに、情報を分けることにした。

見える情報――「落とし物があります」

確認情報――「形や石の色を言ってください」



「持ち主に言ってもらう。こっちが全部言わない」



莉音が言うと、琉牙が指を鳴らす代わりに、軽く掌を叩いた。



「それ、いい。探す人は覚えてるし、覚えてない人は大事じゃない」



言い方が少しだけきついのに、理由は温かい。悠月は頷き、紙の下の方に小さく「特徴を教えてください」と書き足した。文字が小さすぎないように、二回書いて太くする。主張はしないのに、読める。



莉音はその文字を見て、胸の奥が少し落ち着いた。押しつけない優しさは、相手に選ばせる形を残す。自分が欲しかったのも、たぶんそれだ。



琉牙はカウンターの前で、呼吸の数え方を教えるように言った。



「四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。探すのも同じ。息を止めっぱなしだと、苦しくなる」



莉音はその場で一度だけやってみた。胸の奥が少し広がる。悠月が温かいココアを置き、取っ手の向きを莉音の利き手側へ揃える。琉牙にはホットミルク。悠月自身はコーヒーを一口だけ飲み、すぐ机の上の紙の角を揃えた。



小さなイヤリングは、袋の中で静かに光っている。落とした人の顔は知らない。それでも、知らない人の困りごとに手を伸ばしたいと思えたのは、この町の空白が危ないからだけじゃない。



誰かの落とし物を拾って、掲示して、待つ。その一連が、心を少し温める。莉音は気持ちの欄に「押しつけない優しさ」と書き、最後に小さく丸をつけた。



店を出る前、琉牙は戸口で立ち止まり、天井の隅の換気扇を見上げた。回る音が小さく、一定だ。



「音が一定だと、息も一定になる。眠れないとき、俺はこういう音を探す」



莉音は驚いて琉牙を見る。眠れない、と自分から言う人は少ない。琉牙は恥ずかしがらず、でも大げさにもせず、ただ事実みたいに言った。



「昔、落とし物探して夜まで歩いたことある。息が浅いと、目も浅くなる。だから、まず息」



悠月が「まず息」と同じ言葉を小さく繰り返し、棚の角を指で押さえた。莉音はその二人の言葉が、交差点の安全の話とも繋がっている気がした。焦ると視野が狭くなる。息を整えると、見えるものが増える。



莉音は帰り道、袋の中のイヤリングを思い浮かべた。持ち主が現れるまで、時間がかかるかもしれない。けれど、待つ手順はもう決めた。決めたから、怖さは少し小さくなる。



湖畔から吹く風はまだ冷たいのに、ココアの甘さが舌に残っていて、莉音は息を一つ吐いた。今日の分だけ、前に進めた気がした。 誰にも見えないところで。 それでも確かに。 手のひらの中で。 静かに……。



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消えた信号、つながる笑顔 mynameis愛 @mynameisai

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