第04話 枝毛の行方

四月中旬、昼休みの県立水澄高校の家庭科室は、窓を開けると糸くずまで飛んでいきそうな風が通った。机の上には布と針と、掲示用の紙が混ざっている。莉音は掲示板に貼る注意マップの試作品を前に、糸を探していた。地図を壁に留めるための細い糸が、どこにも見当たらない。



風に乗ってミシン油の匂いがふっと来て、莉音の鼻先をくすぐった。糸の色を間違えないように目を凝らすたび、肩が少し上がる。そんなとき、鏡みたいに光るステンレスのはさみが机の端でちらりと揺れた。



「昨日ここに置いたのに……」



莉音が呟くと、花奈江が引き出しを開け閉めしながら、短く返した。



「なくなるものは、なくなる」



悲観でも諦めでもなく、事実みたいな声だった。花奈江は机の隅に積んであった布の端を持ち上げ、下からリボンを取り出した。淡い水色で、細い。糸より目立つはずなのに、不思議と邪魔にならない色だった。



「これ、代わり。結べば止まる」



「結び目が、目立たない?」



莉音が気にすると、花奈江はリボンを指で折り、結び目が隠れる位置を見せた。手が早い。紙を「見える形」にするのが、花奈江は速い。



そこへ真音が遅れて入ってきた。手には、去年の文化祭のポスターの残り。角が少し剥がれていて、失敗の跡が見える。



「これ、使えるかな。失敗の紙、いっぱいある」



真音はそう言って笑った。笑いながら、剥がれた角を指で撫で、もう一度貼り直す。失敗を隠さない手つきだった。莉音はその姿を見て、胸の中が少しだけ軽くなる。完璧じゃなくても、貼って直せばいい。



作業をしていると、花奈江がふいに莉音の髪を見た。視線が、上から下へ一度だけ滑る。



「枝毛。そこ」



指先で示され、莉音は反射で髪を押さえた。



手ぐしの先に、引っかかる細い抵抗が残った。地図の端のほつれと同じで、放っておけば広がるのに、今は見ないふりをしたくなる。莉音は指先を握り込み、胸の奥のむずむずを笑いに変えて飲み込んだ。鏡を見なくても分かる程度の枝毛。気づいていないふりをしていた部分を、事実として突きつけられた気がして、耳が熱くなる。



「……昨日、雨だったし」



「雨だけじゃない。引っ張ると増える」



花奈江は淡々と言い、リボンを地図に結びながら続けた。



「細部、仕上がりを決める。掲示も髪も同じ」



同じ、と言われて莉音は笑いそうになる。掲示と髪を同列にするのは、さすがに無理がある。けれど、花奈江の目は本気だ。真音が横で「枝毛の行方って、どこ行くんだろ」と呟き、莉音はとうとう笑ってしまった。



「行方って……消えるわけじゃない」



「消えないから、記録する?」



真音が悪戯っぽく言い、莉音はメモ帳を出しかけて、慌てて引っ込めた。昼休みに枝毛の記録は、さすがに変だ。



花奈江がリボンを結び終えると、地図は机の端にぴんと張った。糸よりも柔らかいのに、形は崩れない。見た瞬間、莉音の胸に「これならいける」という感覚が湧く。



「……ありがとう」



莉音が言うと、花奈江は頷くだけで、次の紙を切り始めた。真音は失敗のポスターの裏を使って、地図の凡例を描き直す。鉛筆の線が少し曲がっても、真音は笑って「曲がったから目立つ」と言う。そういう許し方が、真音のやり方らしい。



昼休みが終わるチャイムが鳴る直前、莉音は自分の髪を指でつまみ、枝毛の先を見た。切るか、切らないか。枝毛一本で人生は変わらない。けれど、枝毛一本を放っておくと、気持ちの端がささくれる。



莉音はふと思い出す。喫茶店「ミント月」の洗面台の鏡。あの鏡は、照明が柔らかくて、顔が責められている気がしない。見たくないものを、少しだけ見られる。



「今日、帰りに寄る?」



真音が言った。理由は聞かない。誘い方が軽いのに、押しつけない。



「……寄る。鏡、見たい」



花奈江がリボンを指で弾いて、「枝毛、迷子にしない」とだけ言った。昼の風が、髪の先を揺らす。莉音はその揺れを、今日は少しだけ許せた。



放課後、雲の切れ間から陽が出た。校門を出ると、地面の水たまりが光っている。莉音は真音と並んで歩き、商店街のアーケードに入った。真音は途中で「先に図書室寄る」と手を振り、軽い足取りで曲がっていく。理由を言わないまま離れるのに、冷たくない。そういう距離感が、莉音には少し眩しかった。



喫茶店「ミント月」のドアを開けると、鈴が小さく鳴った。店内は夕方の光で少し金色になっている。悠月はカウンターの奥で、スプーンを一本ずつ拭いていた。拭き終えたスプーンをトレーに置くたび、音が出ないように角度を変える。莉音はその動きに、また変な安心を覚える。



「鏡、借りてもいい?」



莉音が言うと、悠月は頷き、洗面台のほうへ顎を向けた。それだけで「どうぞ」が伝わる。莉音は奥へ進み、鏡の前に立った。柔らかい照明の下で自分の髪を見ると、枝毛が一本だけ、白っぽく光って見えた。



指でつまむと、先が二股になっている。小さな分かれ道。莉音はメモ帳を開きかけ、やめた。枝毛にまで出来事と気持ちを分けたら、自分が自分に疲れてしまう。



鏡の横に、いつの間にか小さなクリップが置かれていた。髪を留めるための黒いクリップ。莉音が振り返ると、悠月が入口から視線だけを送っていた。近づかない。けれど、必要なものだけ置く。



莉音はクリップで髪を留め、枝毛の部分が見えない位置へまとめた。鏡に映る自分の顔が、少しだけ落ち着く。枝毛を切っていないのに、気持ちは少し整う。不思議だった。



席へ戻ると、悠月がチョコミントではない、温かいミントティーを出した。湯気の向きが莉音の顔に当たらないように、カップの取っ手の向きまで揃えている。



「枝毛、切る?」



悠月が唐突に聞いた。花奈江の言い方とは違う。質問だけ、置く。



「迷ってる。切ったら、変わりそうで」



「変わる。たぶん。変わっても、戻る」



悠月はそう言い、ミントティーの皿の端を指で押さえて、滑らない位置にした。戻る、という言葉が、莉音の胸の奥で小さく反響する。失敗しても、また伸びる。真音の言葉も重なる。



莉音はミントの香りを吸い込んだ。すっとするのに、冷たくない。春の匂いだ。メモ帳を開き、今日の出来事の欄に「リボンで地図を留めた」「枝毛を指摘された」「鏡で見た」と書く。気持ちの欄には「恥ずかしい。笑った。少し楽」と並べた。



最後に、枝毛の行方、と小さく書いてから、莉音は自分で笑ってしまった。行方は、ここにある。ここからどうするかは、自分で決める。



店の外では、雨上がりの空が少しだけ明るくなっていた。



ミントティーを飲みながら、莉音はふと、掲示用のリボンの結び目を思い出した。結び目は隠すと目立たない。枝毛も、見えない位置にまとめると気にならない。見えないようにするだけで、問題が消えるわけじゃない。でも「いまは安全に進める」形になる。



「結び目、どこに置くかで印象変わる」



莉音が独り言みたいに言うと、悠月は少しだけ首を傾げた。



「じゃあ、枝毛も。置き場所」



「置き場所って……」



「まとめる位置。今日、クリップで変わった」



悠月は言い終えると、テーブルの上の砂糖壺を二センチ動かした。ほんの二センチで、莉音の肘が当たらなくなる。二センチで生活が変わる。枝毛も、二センチの選び方で、気持ちが変わるのかもしれない。



莉音はメモ帳を閉じ、クリップを指先で撫でた。切るか切らないかの決断はまだ先でもいい。今日は「見た」だけで十分だ。そう思えた自分に、少しだけ驚いた。



帰り際、鈴が鳴る音が、昨日より少し優しく聞こえた。耳の奥で、春が一段だけ進んだ気がした。



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