第03話 欠けた月のマグカップ
四月中旬の雨は、降り方が遠慮がちだった。水澄町の商店街は、屋根のあるアーケードの端から端まで、ぽつぽつと水の音が流れている。放課後、莉音が喫茶店「ミント月」に入ると、店内の湿った空気がふっと軽くなった。窓の曇りが、外の景色を柔らかくしている。
カウンターの奥から豆を挽く乾いた音が遅れて届き、雨で冷えた指先がほどけていく。莉音は傘の水滴が床に落ちる小さな音を数えながら、ここに来ると呼吸が整うことを、まだ誰にも言っていないと思った。
悠月はカウンターの奥で、段ボールを畳んでいた。雨の日は客が少ないらしく、椅子の配置も少し変わっている。二人掛けの椅子が、壁から指一本分だけ離れていて、背中が湿気で張りつかない距離になっていた。莉音はそういう細部に気づいてしまう自分が、少しだけ楽しくなっているのに気づいて、気持ちの欄に「慣れてきた?」と書いた。
「倉庫、手伝う?」
悠月が短く言った。手伝う、の前に「無理ならいい」が付かないのに、圧はない。莉音は頷き、エプロンの紐を借りて腰に結んだ。結び目が左右対称にならず、やり直そうとしたら、悠月が目だけでそれを見て、何も言わずに紐の端をそっと整えた。指先が一瞬だけ触れ、莉音の耳が熱くなる。
倉庫は店の裏にある狭い部屋で、古いカップや皿が箱に詰められていた。そこに、欠けたマグカップがひとつだけ、新聞紙に包まれて置かれている。月の絵柄が半分欠けて、ちょうど三日月みたいになっていた。
「これ、捨てる?」
莉音が聞くと、悠月は新聞紙を開き、欠けた縁を指でなぞった。
「捨てたくない。店の月、欠ける」
言い方がやけにまじめで、莉音は笑いそうになる。けれど、欠けた縁を見て、笑えなくなった。口が当たれば危ない。誰かがうっかり使えば、怪我をする。
「飲むのに使うなら、危ない。欠けたところ、鋭い」
「……うん」
悠月は否定しない。代わりに、カップを持ち上げて光にかざし、別の使い方を探すみたいに首を傾げた。
「花、挿す」
「花瓶なら、いい。飲まないなら」
そこで倉庫の扉が開き、樺月が顔を出した。濡れた髪をタオルで拭きながら、手にはクリアファイル。中には紙が何枚も、きっちり揃っている。
「お疲れさま。今、掲示の担当表を作ってきた。ついでに、店の備品も確認する」
樺月はカップを見るなり、すぐにファイルからチェック表を出した。項目に「破損 飲用禁止」「表示 明記」とある。莉音はその速さに、少し救われた。迷っている時間を、樺月は一覧で切る。
「飲用禁止の札、作ろう」
樺月が言った瞬間、悠月の眉がほんの少しだけ動いた。嫌そう、ではない。言葉の角を気にしている顔だ。
「『危険』って書く?」
莉音が提案すると、樺月はペンを止めた。悠月は黙ったまま、欠けた縁をもう一度指で撫でる。
「『危険』だと、怖い人が来そう」
悠月がぽつりと言った。何を想像しているのか分からなくて、莉音は笑いをこらえる。
「怖い人って、誰」
「怒る人。店、静かにしたい」
なるほど、怒鳴り込みの類を避けたいのかもしれない。莉音は出来事の欄に「言い方で客の反応が変わる」と書いた。気持ちの欄には「納得」とだけ。
樺月は紙を一枚取り出し、文字を三種類、声に出して並べた。
「『飲み物には使わないでください』
『お花用です。飲用不可』
『欠けているため、飲用はご遠慮ください』」
「どれがいい?」
樺月は突然、クリアファイルを閉じて胸の前に抱え、声色を変えた。
「すみませーん、このかわいいカップ、使っていいですか?」
客のふりだ。莉音は反射で背筋を伸ばしてしまう。悠月は一拍遅れて、「いらっしゃいませ」と小さく言い、すぐ口を閉じた。言い方の練習に付き合う顔ではないのに、樺月の勢いに飲まれている。
樺月は続ける。
「欠けてるって書いてあるけど、気にしないので平気です。飲みたいです」
その瞬間、悠月が欠けた縁を指で押さえ、短く言った。
「ごめん。けが、させたくない」
それだけ。理由も責任も、全部一息で置く言い方だった。樺月がぱっと真顔に戻り、頷く。
「今のいい。短いし、相手を責めてない」
莉音は思わずメモ帳を開き、「相手を責めない断り方」と書いた。自分なら、たぶん長い説明をしてしまう。長い説明は、相手の心を遠ざけることがある。悠月の一言は、距離を縮める断り方だった。
札作りは、想像以上に細かい作業だった。紙の端を揃え、穴を開け、紐を通す。莉音がはさみで切ると、紙が少しだけ斜めになる。悠月が何も言わずに、もう一枚の紙を下に敷いて、刃が滑らないようにした。樺月はテープを二センチ幅に切り、同じ長さを四本、きっちり並べた。
出来上がった札を棚に置くと、文字が少し傾いて見えた。莉音が直そうと指を伸ばした瞬間、悠月が先に札立ての角度を変え、傾きが消えた。細工で正す。そういうやり方が、この店には多い。
将来の会議みたいに真剣な顔で聞かれ、莉音は一瞬だけ笑ってしまった。たかが札、されど札だ。
悠月は二つ目を指さした。
「これ。短い。刺さらない。……たぶん」
莉音は三つ目を見て、少しだけ胸が痛んだ。「ご遠慮ください」は、言っていることは丁寧なのに、距離がある。莉音は自分が距離を作ってしまう側の人間だと、思い出す。
「二つ目でいい。飲まない理由も伝わる」
樺月は頷き、すぐに「飲用不可」を赤で書き足した。赤が強すぎないように、線の太さを均一にする。こだわりが、樺月にもある。
悠月は欠けた月のカップを、棚の一番上ではなく、目線より少し下の場所に置いた。誰かが手を伸ばしやすい位置。だけど、飲み物のカップと混ざらない位置。置いたあと、棚の前に小さな札立てを置き、札が倒れない角度を探す。
「……欠けても、残せるんだ」
莉音が言うと、悠月は視線を外さずに答えた。
「捨てるのは簡単。残すのは手間。手間のほうが、好き」
その言い方に、胸が少しだけ温かくなる。莉音は気持ちの欄に「手間 大事」と書いた。雨の音が、店の屋根を叩いている。欠けた月は、今日は花を挿さなくても、棚の上で静かに光って見えた。
樺月は帰り際、濡れた傘をたたみながら「今日のところはここまで。次は掲示板の枠、持ってくる」と言い、時間ぴったりに店を出た。時計を見なくても、樺月は時間を守る。
悠月は倉庫から小さな空き瓶を持ってきて、棚の近くの花を一輪だけ差した。黄色い小花で、名前は分からない。莉音が尋ねると、悠月は少しだけ考えてから答えた。
「商店街の花屋の、余り。捨てる前にもらった」
捨てる前に拾う。残す手間が好き。欠けた月のカップに、黄色い花が一輪あるだけで、棚の一角が少し明るくなった。
ちょうどそのとき、雨宿りの客が一人入ってきた。濡れたコートの女性が棚を見て、「かわいい」と声をもらす。悠月が「お花用です」と短く言うと、女性はすぐに頷いて笑った。
「そういうの、いいですね。欠けても、使える」
女性の言葉が、莉音の胸の奥に落ちる。欠けたものを捨てずに、形を変えて残す。人の気持ちも、同じかもしれない。莉音はメモ帳を閉じ、雨の匂いの中で、欠けた月をもう一度見上げた。
帰り道、莉音の鞄の中でメモ帳が少しだけ重く感じた。それは嫌な重さではなく、今日の手触りが残っている重さだった。 雨はまだ降っていたのに、心の中だけは少し乾いていた。 不思議だった。 ほんの少し。
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