第02話 消えた信号

四月の上旬、空はまだ白っぽく、湖畔道路の風は朝だけ少し鋭かった。登校時間の七時五十分。交差点には、制服の群れと、車の列と、早く着きすぎた鳥の鳴き声が混ざっている。莉音は昨日と同じ位置に立ち、メモ帳を開いた。ページの上には「消えた信号」と小さく書いてある。



遠くから、タイマー音が近づいてきた。ピピピ、という規則的な電子音。昴弘が、制服のポケットに手を入れたままスマホの画面を覗き込み、走らずに歩いてくる。



「十分だけ。俺、十分快適に働ける」



「十分快適って何」



莉音が思わず返すと、昴弘は肩をすくめて、片手の指を十本ひらひらさせた。



「十本の指で数えるから。ほら、合理的」



合理的と言いながら、制服のポケットから鉛筆を落とし、しゃがんで拾う。莉音はその一連を見て、気持ちの欄に「ちょっと面白い」と書きそうになり、やめた。自分が笑うと集中が切れる。



悠月は道路の反対側、喫茶店「ミント月」の前にいた。開店前のはずなのに、店内の明かりが一つだけ点いている。窓際の椅子が、昨日より少しだけ壁側へ寄っていて、通る人の肩が当たりにくい配置になっていた。悠月は交差点へは来ない。けれど、来ないことで「見てる」が伝わる場所にいる。



「数え方、決めよう」



昴弘はそう言って、莉音のメモ帳をのぞき込まない距離で立った。代わりに地面を指で叩く。



「ここに立って、左から来る車と、右折する車。別で数える。二人で分担したほうがミス少ない」



莉音は頷いた。



数え始めると、交差点は急に「問題集」みたいな顔をした。白線の間に立つ人の数、車の列の長さ、クラクションの回数。莉音は一台通るたびに、メモ帳の端に小さな縦線を引く。五本で区切り、十本で丸をつける。手が慣れると、視線が上がる。



目線を上げると、人の表情が見えた。ランドセルの子が母親の袖を引いている。高校生の二人組が「今、行けるって」と言って一歩踏み出し、友達に引き戻されて笑う。笑いながらも、足先が白線のぎりぎりにかかっている。



莉音は気持ちの欄に「笑いは軽い。でも危ない」と書いた。自分の文章が少しだけ固いのが分かる。けれど、固いほうが今はいい。



昴弘は、車の種類まで分け始めた。大型車が通ると風圧が違うからだという。十分快適のくせに、余計なことを増やすのが不思議で、莉音が目で問うと、昴弘は小さく指を二本立てた。



「二つだけ。『怖い車』と『普通の車』。俺の感覚で」



「感覚、混ざると怒られる」



「怒られたら直す。今は仮」



仮、という言い方がいい。莉音は出来事の欄に「大型車 風圧、視界遮る」と足した。

出来事の欄に「車は直進と右折」「歩く人は横断待ちの人数」と書く。昴弘がすぐ横で、スマホのメモに「七時五十分から八時まで」と打ち込んでいた。十分快適、という言葉が嘘じゃない速度だった。



信号のない横断歩道では、立ち止まっても車は止まらない。止まったとしても、後ろの車が追い越し気味に抜けていく。莉音は「危険の理由」を、頭の中で分解していった。見通しの悪さ。車の速度。歩行者の焦り。案内の不足。慣れによる油断。



八時になる少し前、突然、自転車のベルが鳴った。制服の男子が、車の切れ目を狙って斜めに突っ込んできた。危ない、と声を出すより先に、悠月が道路の反対側で手を上げた。短い動きなのに、男子はそれを見てブレーキをかけ、タイヤがきゅっと鳴った。転ばずに止まる。



自転車の男子が走り去ったあと、交差点の端で小さな犬が吠えた。散歩中の老夫婦が、犬のリードを短く持ち直しながら渡ろうとしている。犬は車の音にびくっとして、歩道の端へ寄った。



莉音は反射で一歩出かけて、止まった。自分が出ていくと、犬が余計に動いてしまう。どうすればいい。考えている間に、悠月が店の前から出てきて、老夫婦の横へすっと立った。



「渡りますか。今、切れる」



悠月は右手を軽く上げ、車の流れが薄くなる瞬間を示す。老夫婦が頷き、犬もそれに合わせて一歩ずつ動く。悠月は犬の目線に合わせるように膝を曲げ、リードの位置を邪魔しない距離で歩いた。声をかけない。手を出さない。ただ、車が来る方向に体を向け、壁みたいに立つ。



渡りきった老夫婦が「ありがとうね」と言ったとき、悠月は「いえ」と短く返して、もう店へ戻った。莉音はその背中を見て、気持ちの欄に「言葉少ないのに、伝わる」と書いた。



男子は照れたように頭を下げ、そのまま走り去る。悠月は何も言わず、上げた手を下ろして店の中へ消えた。



莉音は気持ちの欄に「胸が縮む」「でも止まった」と書いた。書きながら、自分の手が少し震えているのに気づく。怖さは数字に変換できない。けれど、怖さの理由なら、書ける。



「今の、危なかったね」



昴弘が淡々と言った。淡々が、逆に助かる。



「うん。焦ると、目が車に行かない」



莉音が返すと、昴弘はスマホを見せた。画面には「焦り 視野が狭くなる」「飛び出し増」と短いメモが並んでいる。



「こういうの、掲示するなら短いほうが刺さる。長いと読まれない」



刺さる、という言い方が少しだけ大げさで、莉音は口元を押さえた。笑っていいのか分からない時、莉音はとりあえずメモする。



数え終えた十分後、昴弘のタイマーが「ピピピ」と鳴った。昴弘は腕時計を見るふりをして、スマホをポケットにしまう。



「はい、俺の十分快適終了。あとは任せた」



「ほんとに十分快適なんだ」



「短いと続く。長いと嫌になる」



その言葉は、やけに現実的だった。



下校時刻の前、莉音は悠月の店へ寄った。店内の壁際の空白に、マスキングテープで四角い枠が作られている。貼る前の準備だけが、すでに整えられていた。



「朝の数、ここに置く?」



悠月が短く聞く。



「うん。時間帯、別にする。色も変える」



莉音が答えると、悠月は小さな紙を出した。紙には、見やすい太さで「朝 七時五十分から八時まで」と書かれている。莉音は驚いて顔を上げた。



「……私、まだ見せてないのに」



「見てた。窓から」



それだけで、十分だった。



その日の夕方、莉音は別の道を回って帰った。すると、湖から少し離れた小さな交差点でも、案内板が外れたままになっているのを見つけた。信号だけじゃない。危ない空白が、町に点々とある。



莉音はメモ帳の出来事の欄に、新しい丸をつけた。やることが増えると、気持ちは重くなる。でも、順番を付ければ動ける。



店の壁の枠が、少し大きく見えた。



店に入ると、悠月がカウンターの内側で、紙コップを積み直していた。積む高さが揃っていないと気持ちが落ち着かないらしく、ひとつずつ指先で回して面を合わせている。莉音はその光景を見て、思わず「職人気質?」と口にしかけ、やめた。形容は避けたい。代わりに出来事として書く。「紙コップの向きを揃える」。



「数字、見せて」



悠月はそう言って、莉音のメモ帳を覗き込まない。代わりに、メモ帳の横に置いた付箋だけを指で示した。莉音は、出来事の欄から必要な数字だけを書き写し、付箋を並べた。朝の十分快適、昼の下校前、夕方の子どもの多さ。色を変えて並べると、交差点の「顔」が見える。



悠月は並んだ付箋を、二ミリずつずらして整えた。色の順番は変えない。角だけ合わせる。莉音はその作業を見て、胸の奥が少しだけほどけた。



「これなら、読める」



悠月が言う。「読める」という評価が、莉音にとっては「やっていい」の許可みたいに聞こえた。



外の空が少し青くなる。信号の空白は、まだそこにある。でも、空白を埋める手順が、昨日より具体的になった。



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