消えた信号、つながる笑顔
mynameis愛
第01話 チョコミントの味
四月のはじめ、県立水澄高校の校門は、まだ新しい靴の裏がきゅっと鳴る程度に乾いていた。転入初日の放課後、莉音は配られたプリントを鞄の中でまっすぐ揃え、いちばん角が立たないように折り目を押さえた。教室のざわめきは背中に置いて、外へ出る。制服の袖口から、春の冷たい風がすっと入りこんだ。
通学路の地図に丸をつけた交差点は、湖畔道路へ続く大きな分岐だった。坂を下りきると、湖の匂いがする。水面は曇り空の色を映していて、岸の桜はまだ半分だけ咲いている。その景色に目を取られた瞬間、莉音は足を前に出してしまった。
信号が、なかった。
あるはずの場所に、箱のような金具だけが残っている。支柱の根元に新しいコンクリートが盛られ、ケーブルの先が黒いキャップで塞がれている。車は途切れずに流れ、タイヤが濡れた路面をこする音が、耳の奥で増幅した。
「危ない」
短い声と同時に、手首が引かれた。体が半歩うしろへ戻され、足先が縁石に当たって止まる。驚きで喉が固まり、莉音は声が出ないまま相手を見上げた。
同じ制服ではない。薄いグレーのパーカーに、濃いエプロン。胸元に小さく刺繍された月のロゴ。青年は息を整えるように一度だけ肩を上下させてから、莉音の手首を離した。
「……ごめん。反射で」
謝る言い方が、まるでレジでお釣りを渡すみたいに簡潔だった。莉音は自分の手首を見た。痛くはない。でも、指の跡が残るほどの力だったのが分かる。車が一台、すぐ目の前を抜けていった。もし、引かれていなければ。
「……助けて、くれた」
やっと声が出た。莉音の言葉は、口から出た瞬間に自分の耳へ戻ってきて、少し頼りない音に聞こえた。
「うん。渡るなら、今じゃない」
青年は道路の流れを目だけで数えるように見た。車の列が切れるところ、右折の溜まり、坂を上ってくる自転車。視線が早いのに、慌てた感じがしない。すっと指を一本立て、合図のように言った。
「次、二十秒くらい空く。あの白い軽の後」
言われたとおり、白い軽が通過すると、流れが一瞬だけ薄くなる。青年は先に一歩出て、立ち止まり、左右を確認してから手のひらを軽く上げた。莉音はその背中に合わせて渡った。横断歩道の白線が、やけに頼りなく見える。渡りきったとき、息を吸い直して初めて、心臓が早いことに気づいた。
青年は道路脇の角を曲がり、古い商店街へ向かって歩き出した。逃げるような速度ではないが、立ち話を続ける気配もない。莉音は追いかけた。
「待って。さっきの……」
青年は立ち止まり、振り返った。視線の高さが同じくらいで、不思議と落ち着く距離だった。
「ミント月。店、そこ。謝りたい」
指が示した先に、喫茶店「ミント月(つき)」の看板があった。月の形のランプが、昼なのに淡く点いている。入り口のガラスには、手書きのメニュー。「チョコミント、始まりました」の文字が少しだけ斜めで、逆に目が止まる。
店内は、外より静かだった。椅子は四人掛けでも二人分の距離が空いていて、窓際の席だけが日差しを受けている。青年はその窓際を避け、壁際の席を引いた。椅子の脚が床をこする音が出ないように、ほんの少し持ち上げて置く。莉音は、その動きがやけに丁寧で、笑いそうになるのをこらえた。
「俺、悠月。ここ手伝ってる」
「莉音。今日、転入した」
名乗り合うだけで会話が終わりそうになり、莉音は鞄からメモ帳を出した。自分でもおかしいと思ったが、いま頭の中が散らかっている。言葉にして並べないと、落ち着けない。
メモ帳の見開きの左に「出来事」、右に「気持ち」と小さく書き分けるのが、莉音の癖だった。出来事の欄には「交差点。信号が消えていた。足を出しかけたところで、腕を引かれた」。気持ちの欄には、いま書ける範囲で「驚いた」「少し怖い」「でも助かった」とだけ並べる。文字にすると、胸の中で固まっていた塊が、少しずつ角を落としていく。
悠月はその書き分けを横目で見て、何か言いかけたように口を開き、結局閉じた。その代わり、テーブルの端に置かれた砂糖壺の向きを、莉音の手が当たらない位置へ静かにずらした。気づきにくいのに、助かる動きだった。
悠月は何も言わず、水のコップを置いた。コースターの端が机の線と平行になるように揃える。莉音はその仕草に、また笑いそうになった。
「……信号、外したんですか」
悠月の手が一瞬だけ止まった。
「工事、って聞いた。けど、案内は雑」
雑、と言い切るのが少しだけ可笑しい。莉音はメモ帳に「信号撤去 工事? 案内不足」と書いた。ペン先が紙を引っかく音だけが残る。
悠月がカウンターへ行き、しばらくして戻ってくる。置かれたのは、薄いミント色のアイスと、濃いチョコの層が見えるグラスだった。上に砕いたチョコがふわっと散っている。
「……お詫び。チョコミント」
「お詫びが、食べ物なんだ」
莉音がぽつりと言うと、悠月は肩をすくめる代わりに、エプロンのポケットを指で叩いた。
「言い方、下手。だから味に頼る」
その言い方が、ずるい。莉音はスプーンでひと口すくい、舌に乗せた。冷たさのあと、甘さ、最後に少しだけ苦いチョコ。ミントは強すぎず、鼻の奥にすっと抜ける。
「……春の歯みがき、じゃない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。たぶん」
悠月は口元だけで笑った。莉音はメモ帳に「チョコミント 甘い。すっとする。苦い。落ち着く」と書いた。食べ物の感想をメモする自分が、急に恥ずかしくなる。けれど、恥ずかしさより先に、落ち着きが来た。
窓の外で、商店街を歩く人の足音が遠くに流れる。悠月は店の壁を見て、指で空いている場所を測るようにした。
「ここ、地図貼れる。人が止まって見ても邪魔にならない」
莉音は顔を上げた。誰かが困る前に、危ない道を分かりやすくしたい。その気持ちが、まだ会って一時間も経っていない相手と、同じ方向に向いているのが不思議だった。
「……私、時間帯ごとに危ない瞬間を記録する。明日の朝、ここ通る人、多い?」
「多い。八時前が一番」
言葉が短いのに、必要な情報だけがちゃんと来る。莉音はペンを握り直した。星が見える夜の話はまだ遠いけれど、信号が消えた昼の怖さは、今日もう十分に分かった。
店の壁の空白が、これから埋まっていく気がした。
チョコミントを食べ終えたあと、莉音はグラスの水滴を指でなぞってしまい、慌てて手を引っ込めた。子どもみたいだ。けれど、悠月は笑わない。代わりに紙ナプキンを一枚、視界の端へ滑らせて置く。押しつけでも、気遣いの誇示でもない。「ここにあるよ」だけを置く感じが、なぜか安心する。
「明日の朝、あなたも交差点にいるの?」
莉音が尋ねると、悠月は少し考えてから、首を小さく縦に動かした。
「七時半。開店前。見てるだけだけど」
「見てるだけ、じゃない。止めてくれた」
莉音は出来事の欄に、もう一行足した。「悠月 反射で人を止める」。気持ちの欄には、少し迷ってから「ありがとう」と書いた。口で言うのはまだ照れくさいのに、文字なら置ける。
店を出ると、春の風がまた頬をなでた。ガラス越しに見える悠月は、椅子を元の位置へ戻し、テーブルの上の小さな砂糖壺を、ほんの数ミリ動かしている。たったそれだけの動きが、「この店は誰かを落ち着かせるために作られている」と言っているようだった。
莉音は交差点のほうへ視線を戻した。信号のない空白が、今日より少しだけ怖くなく見える。理由を調べるのは、きっと面倒だ。けれど、面倒を順番に並べられるなら、怖さも小さくできる。
明日の朝、まず何を数えるか。莉音は鞄の中でメモ帳を確かめ、歩き出した。
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