第2話 悪が滅びるとき
あたし、父親の顔は知らない。
幼稚園の参観日のとき、周りのお友だちに父親がいるのを見て、あれ、そういえば。
と、思ったときには概念すら存在しなかった。
母親は、子どもは勝手に育つと考えているような人だったし、あたしが高校生になった時分から彼氏ができたようで、家を空けることが多くなった。
寂しいなんて、思ったことはない。
だってそのおかげで今、あたしは愛おしい人を連れて帰れるんだもん。
さあ、部屋のどこに飾ろうかな?
きっとどこに飾っても、あたしの部屋にぴったりだと思う。
試しに部屋のドアの前に置いてみたら、なんだかそれだけで胸がいっぱいになって、ぐっとくる。
あたしの目にカメラがついていたらよかったのに。
そうしたら瞬きするたびその姿を収められるし、いちいちフォルダを開かなくても、365日24時間、彼の姿だけを眺めていられるのになぁ。
人間って、ままならない。
制服のネクタイをほどいた。
それから彼の真っ白な手首を拘束し、ドアの取手に引っかける。
ついでに色眼鏡もかけてあげよう。
ああ、世界はなんて美しいんだろう!
「ふぅぅぅ」
前髪がなびく。
目が覚めたら彼はなんて言うんだろう?
どんな顔をするんだろう?
だけどその前に………
そっと心臓に耳をあて、細い腰に抱きついてみた。
ドクン、ドクン。
と、魔法のリズム。神のリズムで脈打つそれを、できることなら家宝にしたい。
◇
◇
◇
「──────え」
おでこに低いが当たった。
愛おしさに溺れて窒息死寸前だったあたしは、いちどだけ深く息を吸い込んでから体を離して、固まっている彼の顔を覗き込む。
「あ。目が覚めた?」
「君は、………えっ!?」
そこで初めて夢から覚めた様子の彼は、ドアに預けていた体をポップコーンみたいに浮かすけど、手首の拘束に気づいてまた固まってしまった。
それをあたしは特等席で眺めて、くすくす笑っちゃう。
「落ちついて、だいじょうぶ。ここはあたしの部屋だから」
「部屋って………どうして、俺は、」
いつもはヒーロー相手に余裕たっぷりな彼も、今は迷子になった子どもみたく困っている。
そのかわいいが過ぎる姿にもう我慢できない。
「あたしがあなたを連れてきたの」
息がかかるほど近く、むしろ食べてほしくて、鼻先が触れるほど顔を近づけると、彼は体を引っ込めるように首を縮こませる。
「連れてきたって、どうして。いったい君は何なんだよ! 何の恨みがあって、」
「愛だよ」
なにか勘違いをして声を荒らげる彼に、あたしは教えてあげる。
「ねぇ、アラリック。あたしとお友だちになって?」
ぽかんとした、力の抜けた声があたしの言葉を繰り返す。
「は………? 友達?」
「そう。なってくれる?」
「ふざけるな! 何が友達だ。こんな事をされて友達になれる奴がいるか! さっさとこれを外せ!」
プラスチックでできた世界の向こう。
その瞳が怒っているのがうっすらと見える。
期待していた返事とはまったく違うものだったから、肩を落とすしかない。
「じゃあお友だちは諦める」
お願いごとはまだまだあるんだから。
「その代わり、あなたの血を舐めさせてよ」
「気持ち悪い!」
「えぇ? だって気になるんだもん。あたしね? あなたとヒーローが戦っている姿をよく配信で見るの。ときどきアラリックが怪我をしたときに考えちゃうんだ。ああ、いちごジャムみたいに甘くておいしそうだなぁ。って」
「もう黙ってくれよ! 吐きそうだ………」
頭を左右に振りながら、彼は今にも泣きそうな、頼りない声をだす。
そうして俯いてしまうと、動かなくなった。
どうしたんだろう?
頭が痛むのかな?
心配になって、下から顔を覗き込もうとした。
「………分かった」
不意に、ぽつりと音がこぼれた。
「分かった。好きなだけ舐めさせてやる」
「え? ほんとうに? いいの?」
思いがけずお願いごとが叶って、色眼鏡に映り込むあたしの両目は丸くなっている。
お友だちになるよりも血を舐めるほうがいいなんて。
ワルモノってちょっと変わってる。
でもそんなところも大好き。
彼は頷いた。
「ただ、これを外してくれ。そっちの頼みを聞くんだからこっちの頼みも聞いて欲しい」
「………………」
うーん。
あたしは人差し指を顎にあてて、ちょっとだけ考えた。
「分かった。いいよ」
あたしは、アラリックの言葉を信じている。
神様よりも信じている。
約束通り。取手に引っかけていたネクタイを外してあげた。
あたしの頭のなかはもう、どこに噛みつこうか。
それだけでいっぱいだった。
人差し指かな? 首筋かな?
ううん、やっぱり腰かな?
アラリックがふらっと立ち上がる。
その姿を目で追いかけて、自然と顔が上を向く。
「ありがとう。だけど君はちゃんと知っておいた方がいい」
「なにを?」
ごくごく自然な、流れるような仕草で彼は色眼鏡のテンプルに手をやり、
「──────変身」
小さな声で呟いたその瞬間。
真っ黒な霧が辺りを包み込んだと思ったら、そのなかから金色の長い髪をなびかせ、黒い鎧を纏ったアラリックがいた。
その姿にあたしは声もでず、それだってただ恍惚と見つめるだけ。
アラリックが右腕を伸ばした。
あたしに向いた、あたしにだけ向けられた指先にも黒い光が集まっていく。
「アラ、」
名前を口にしようとした、熱に浮かされたその音は、だけど彼の低い声に遮られた。
「悪はいつか撃たれるんだって」
温度のない声が落ちた。
指先に集まった光が瞬間、爆発したみたいに弾けてあたしへと一直線。
痛い、とも。苦しい、とも。
感じる暇もなかった。
あたしの体は窓ガラスを突き破り、遠く遠く、地球の彼方へ飛んでいった。
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