歯だけが残る

江藤ぴりか

歯だけが残る

 夢を見た。

 せんべいを食べていると、前歯がガチリと砕けたのだ。

 俺は口の中に入った歯を取り出し、指でなぞった。

 すると、欠けた歯の尖った部分で怪我をする。

 その痛みで、目が覚めた。


「……夢、か」

 俺は前歯を触り、歯があることに安堵した。

 最近ちょっと疲れていたのだろう。

 冷蔵庫に行き、お茶を取り出し一口飲む。キンッと冷えたお茶が歯に染みた。

「まさか、なにかの予兆なのかな……」

 四十しじゅうも半ば目前になり、腹の肉も気になる年頃だ。

 八十二キロにまで増えた体重にも、今のところ焦りはない。

 もう、恋愛も結婚も諦めている。

 俺はひとりで生きていくのだ。

「そうは言っても、検査に行ってみるか……?」

 歯医者は木曜、日曜休診。土曜は午前診か。定期検診もそろそろだし、予約でも取っていくか。

 朝の支度と夢の再生、歯医者の予約で朝ごはんを食べ忘れていることに気づくのは、会社に着いてからだった。


「佐藤さん、この見積書のチェックおねがいしま……あれ? 元気ないですね。どうしました?」

 部下の中村さんはよく気づく。

「ああ、ちょっと朝ごはん、食べてなくて。見積書は……うん、これで先方にメールしてくれていいよ」

 紙の書類で確認を取ってくれる部下の気遣いに、感謝している。

「佐藤さん、四十四なんですから、健康を意識しないと! それじゃあ、メールしておきますね」

 ……訂正しておこう。中村さんは、少し言葉が多い子だ。


 デスクとの距離は腹の肉で少し遠い。

 自分は古い人間だということも理解している。

 でも若い子に気を遣われるのにはまだ慣れていなかった。

健司けんじ、中村になんか言われたろ。気にすんなよ。おれらも若い頃、ああだったろ?」

「三浦……。気にしてないさ。俺はマイペースな人間なんだ」

 同期の三浦は同い年なのに、若々しい見た目をしている。

「ははあ、見た目どおりだ。でも、ちょっとは痩せたほうがイケオジに近づけるかもな」

 こいつもひと言多い。

 彼は若い奥さんと子どもに囲まれて幸せなんだろう。

 パリッとしたシャツに磨かれたビジネスシューズ。幸せそうに見えた。



 昼休み。

 近所の弁当を買って、会社に戻る。

「いただきます」

 自分のデスクで食べるのが佐藤健司さとうけんじ流だ。

 おもむろに割り箸を割り、白米に手をつけ頬張る。

 米の甘みが口いっぱいに広がった。

 そして豚の生姜焼き、ポテサラ、たくあんに……。

 ――たくあんは、やめておこう。

 あんな夢のあとだ。気分が悪い。

「ごちそうさまでした」

 たくあん以外、完食しゴミ箱に向かった。


 トイレに行き、入念に歯磨きをする。

「あれ? 健司、外回りでもあんの?」

 三浦に出くわし、声をかけられる。

 口をゆすぎ、それに答える。

「いや? なんで?」

「なんか、前歯ばっか磨いてるから気になってな。青のりはついてないけど、口の周り、泡だらけだぞ」

「――あ」

 鏡を見ると、カニのように口周りが泡だらけだった。

 ハンカチで拭って、もう一度鏡を見る。

(……前歯ばっか磨いてた、か)

 深層心理でも気にしていたんだな。


 昼休みも残り十数分。

 俺は三浦に今日の夢の話をした。

「……で、前歯がかけて目が覚めたんだ」

「ああ、それで。夢占いではトラブルの予感、って書いてあるぞ」

 こいつは意外とロマンチストなんだろうか。

 夢占いなんて、バカバカしい。でも、モニターに映し出された文言を読むと、確かに当たっている……気がする。

 ちがう、これはバーナム効果だ。それっぽいことを、誰にでも当てはまるように行っているだけだ。

「嫁が好きなんだ。それでおれも気にするようにしてるんだ」

 こんな時でものろけは忘れない。悔しくは、ない。

「はいはい。ごちそーさまなこった」

 手を振って俺はトイレをあとにした。



 今日の晩飯はどうするか……。

 午後八時すぎ。俺は近所のスーパーの半額弁当を選んでいた。

 昼は肉だったし、サバの塩焼き、中華丼もいいな。

 でも疲れているし、骨取るのも面倒だし、きくらげは歯が欠けそうだし……。

 ――歯が欠けそう? なんで、ためらったんだ。

 今日は中華丼をあっためて食べてしまおう。

 きくらげで歯がかけるなんて、ありえない。歯医者の笑いの種になりそうじゃないか。


 頭では分かっているのに、その晩、きくらげは残してしまった。



 翌日はあの嫌な夢を見ることなく、起床した。

 しかし、朝ごはんを食べ忘れる日々は続いている。

「最近、佐藤さん痩せました? 顔がスッキリしている気がします」

 憂うつな俺の気持ちとは裏腹に、中村さんの評価は上がった。

「そうそう、検診の結果、見ました? 私、去年よりちょっと痩せたんですよ。ジム通いが効いたのかなー」

 俺の結果は要検査だった。メタボリックなんちゃらに引っかかっていた。

「俺は要検査だったよ。やっぱり太っているからね……」

「んじゃあ、佐藤さんもジム行って、健康的に痩せましょ! ムキムキまでいかなくても、痩せたら変わることってありますから」

 ジムに行くのはハードルが高すぎる。

 周りに行っている人がいたが、たいていは行かなくなって年会費の無駄になっていた。

「……まぁ、考えとくよ」

 曖昧な返事になるのも、当たり前だろう。


(そうだ、歯医者の予約してないな)

 あの日以来、歯の夢は見なくなって忘れていた。

「お電話ありがとうございます。田口歯科です」

「あ、定期検診の予約をしたいんですが――」

 三日後の土曜の午前十時。

 忘れないよう、スマホのカレンダーに入れておこう。


 そして土曜の午前。

 俺は歯医者に行き、歯科衛生士の女性に、くだんの夢の話をした。

「……佐藤さん、ちょっと気にしすぎですよ。歯茎も健康そのものですし、

ぐらついていることもありません。それに、よくある夢じゃないですか」

「でも、なんとなく気になってまして……。でも大事ないなら安心しました」

 社交辞令だった。

 本当はなにかあるのではないかと気が気でなかった。


 その後も硬いものはなんとなく避け続ける日々だった。

 客からのせんべい、これは俺の好物でもあったのだが。

「なんだよ、このせんべい、健司が好きなやつなのに遠慮しちゃってさ。いらないなら、おれがもらうけど」

「ああ、そうしてくれ……」

 バリボリと美味しそうな音が聞こえてくる。

 それが俺には苦痛に感じた。


 健康的なナッツ類。歯の間に挟まるのも気になる。

 だけど、漬物を避けているのは、きっと塩分過多を気にしてだ。

 とんかつも、唐揚げも、熱で歯に負担がかかるからだ。

 そうして過ごしていると、もう大丈夫なのではないかと思えてくる。

 やっぱり、気にしすぎなんだよ。

 今夜の晩ご飯はさくら軒のとんかつ定食にしよう。

 白飯にとんかつ、キャベツに漬物。

 俺は久しぶりに食の喜びに再開した気がした。



 その晩、夢を見た。

 今日食べたはずのとんかつを頬張り、思いっきり噛む。

 すると、口の中がジャリリとなる。俺はアサリでも食べていたのか?

 いや、ちがう。この甘みは豚肉だ。でも口の中は砂利を含んだようにザラザラしている。

 ――このまま、飲み込みたくない。

 きっと喉越しはざらつき、不快になること間違いなしだ。

 ゲエッと吐き出したものを見ると、白く砕けた破片と、噛み砕いたとんかつが。

 舌で歯を撫でると、柔らかい歯茎と尖った破片が当たった。

「ひぃっ……」

 口で息をしても、そのまま息が漏れてしまう。

 ひゅーひゅーと、呼吸が歯茎を乾かす。

 震えるアゴが歯には当たらず、歯茎に伝わる。

 カチカチではなく、コンコンと。


 ――誰か、助けてくれ!


「――っ」

 寝汗をたっぷり含んだスエットが、枕が、布団が。

 悪夢だ。

 昨日、調子に乗ってとんかつや漬物を食べたからだ。

 そう思うと、胃から込み上げてくるものがある。


 俺はトイレで吐いて、洗面台の鏡を見る。

 ……ひどい顔だ。

 目は落ち込み、頬はけている。

 歯はどうだ?

 前歯、犬歯、奥歯……。よかった、ちゃんとある。

 砕けていない。

 まだ、ある。ちゃんと、ある。

 今日は日曜日なんだから、もうちょっと寝るか?

 ……いや、夢の続きの再演なんて冗談じゃない。

 ふらつく足元で、冷蔵庫に向かい、コップにお茶を注ぐ。

 キンッと冷えたお茶がまるで、夢の中にいるみたいだった。



 あまり噛まなくていい食事ってなんだろう?

 うどん、蕎麦、ラーメンみたいな麺類か?

 雑炊、おかゆなんかも選択肢に入るだろう。

 ゼリーなんかもいいな。

 ベッドにもたれかかり、思考する。

 今日は食パンも、やめておこう。

 非常食用の〝十秒でとれる朝ごはん〟のゼリー飲料で済ませようか。

 昼はうどんに、夜は雑炊なら腹も満たせる。

 足りないなら、量を増やせばいいはずだ。

 いいぞ、俺はまだ考えるあしだぞ。弱くとも、思考できる〝人間〟だ。


 その日から、俺はガラリと変わっていった。

 中村さんからは「ほっそりした」と評価をもらったし、三浦も「最近、なんか変わったな」と褒められた。

 よしよし、これが俺の正解のルートだ。

 俺は自分で運転できている証拠だ。

 ルート案内は、夢の内容。

 付き合いで食べたハンバーグの時は、キャロットグラッセのせいだろうか。奥歯が砕ける夢を見たし、肝が冷えた。


 よしよし、俺は自分を俯瞰ふかんできている。

 最近は指も腕も、痩せてきている。

 会社の人間の見る目も、変わっていった。

 女性社員によく声をかけられるようになった。


 悩みがあるとすれば、スーツのサイズがダウンしたので、買い直したのが手痛い出費だった。

 鏡に映る俺の顔は痩せぎすのような気はするが、気のせいだろう。

「俺は、大丈夫だ……」

 髪も切って、さっぱりしていけば、いいだろうか。

 千円カットではなく、美容室で。


 その日の夢は、噛んだ瞬間、歯がなかった夢だった。

 ザリリという違和感はない。でも、おかゆの熱さが歯茎にダイレクトに伝わった。

「あっちっち!」

 頭の奥が、熱の刺激で鈍痛どんつうとなる。


 もう、なにを食べても、逃れられない。



「あれー? 佐藤さん、お昼とらないんですかぁ?」

 中村さんが無邪気に問いかけてくる。

「ああ、ちょっと食欲がなくてね」

 できるだけ笑顔にしたつもりだ。

「あんなに食いしん坊だった健司が変わったモンだな」

 三浦も愛妻弁当を食べながら、会話に混ざる。

 黄色と茶色のそぼろ弁当を見ていると、吐き気がしてきた。


「そういえば、何キロ痩せたんですか?」

 体重なんて検診以来、測ってないな。

「さあね。家に体重計、ないから」

「ええ? 記録したほうがモチベーション、アガるじゃないですかぁ」

 手を広げ口元に置き、大げさに驚いている。

 そんなに変わっているのか?

 健康志向の中村さんらしい感性だ。

「そうか? 今度、家電屋に行ってみるかな」

 行く気はないが。

「そうした方が絶対、いいです! 最近、佐藤さんイイ感じだって女子から評判なんですよ」

 見た目が変わっただけで、周りの見る目が変わるなんて、諸行無常だな。


 今日も晩飯だけの作業が待っている。

 明日も、あさっても。

 ずっと、ずっと……。


 雑炊、うどん、ゼリー飲料。

 食事は生命維持であって、喜びはない。

 これは作業であって、仕事を続けるための手段だ。

 食費も浮いて、趣味に使える。……趣味なんてないけど。

 これを機に、新しいことでもはじめようか。

 そう思っても、休日は寝てばかりの日々だった。



 もう一年になるのか。

 食事は作業で、三日に一度のお決まりになったのは。

 それでも、夢は警告してくる。

 流動食に変えても、食事を絶っても、ずっとずっと俺のそばを離れようとしない。


「……佐藤さん、ちゃんと食べてます?」

 痩せてきれいになった中村さんがある日、心配そうに声をかけてきた。

「食べてるけど……なんか、変?」

 骨ばった俺の手の甲は、乾燥してカサカサしている。

「変っていうか、痩せすぎですよ! ほら、手なんて骨格標本みたい」

「…………」

 もう会話も、めんどくさくなってきたな。

「確かに痩せすぎだし、なんか元気もないよな」

 三浦まで応戦してくるとは。友情より女をとるのか?

「……ほっといてくれよ。俺は仕事で忙しいだけだよ」

 テキトーな言い訳で論理武装する。

「健司、悩みがあるなら話、聞くから。今日にでも呑みに行かないか?」

 背中を叩かれ、心臓にまで振動が届いた。

「いや、今日は帰ってやることあるから」

 気づかれていないはずだ。

 夢の話もあれ以来していないし、俺はいつでも正常だ。


 今日は作業の日だけど、めんどくさいから寝てしまおう。

 寝れば疲れも悩みも、煩わしさからも逃れられる。

 あの夢も、飯を食べなければ見ない。


 俺は暴食から解放された新人類なんだ。



 健司は今日も無断欠勤か。

 痩せぎすに拍車がかかった一年後。

 今日で一週間の無断欠勤が続いている。

 あいつは入社以来、仲良くしている男で、下の名で呼ぶくらいには打ち解けていたはずだった。

 なのに、なんで相談もしてくなかったんだろう?

「佐藤は今日も無断欠勤か。三浦、同期のよしみだ。今から様子をみて行ってくれないか?」

「……はい」

 家の住所は分かっている。

 何度も行ったマンションだ。

 しかし、おれは嫌な予感しかなかった。

「三浦さん、これ佐藤さんに」

 健司の部下の中村が、スポーツ飲料とカップスープを渡してきた。

「うん、行ってくる。中村も心配だよな。連絡するから待ってて」

 おれはビニール袋を受け取り、会社をあとにする。


 結婚以来、遠のいていた健司のマンションは、昔のままだった。

「独身貴族の城なんだって言ってたっけな」

 インターホンを鳴らすも、返事はない。

 もう一度鳴らす。――足音すら聞こえない。

 心臓がうるさい。落ち着け、まだ諦めるな。

 中村から受け取った袋をぎゅっと握りしめる。


 違和感は、ある。

 辺りに漂う、腐敗臭。

 子どもの頃に近所で野良猫が死んでいたことがあった。

 あの独特の鼻を刺すにおい。

 おいおい、健司。違うよな?

 ここの管理会社に連絡しよう。そして適時、警察にも。

 鼻から息を吸い、吐く。

「まだ、決まったわけじゃない……」

 スマホを持つ手が震えている。


 管理会社の人が健司の合鍵でドアを開ける。

 すると、広がる腐敗臭。

 ――やはり、そうか。

 キッチンにはゼリー飲料のゴミや、卵の殻、鍋の中には数日が経過したであろう雑炊に、ハエがたかっていた。

「うわ、こりゃひどい」

 そう呟く管理人におれは憤りを覚えた。

 パックご飯のゴミに、袋麺のゴミ、吐瀉物としゃぶつが足元に散乱している。

 部屋に入ると、健司が半分ミイラになって目を見開いていた。

「すみませんが、警察に……」

 管理人はスマホで連絡をはじめた。


「健司、健司……どうしてこんなことに」

 大きな黒いハエが健司の目に留まる。

 おれは手で払い、膝をついた。

 これは、健司だったものだ。

 茶色くて、所々どす黒くて、目が濁ってて。

 開かれた口からは白い歯が見えていた。

「会社、連絡……中村と、部長……」

 指が震えて、思うように動かせない。

 どうして、おれは痩せていく健司に食べさせてやれなかったんだ!

 なんとか連絡帳を開いて、会社に電話する。


「三浦です……。はい、佐藤なんですが、死んでいて……。ええ、腐乱死体の状態で……その、夏ですから、エアコンもついてなくて……」

 状況をたどたどしく、説明する。

 食事らしいものなんて、鍋にあった雑炊くらいか。それもほとんど、手を付けられていない。

 部屋のハエも、ゴキブリも。

 健司にはふさわしくない参列者だ。

 おれは、頬の涙も拭かず、突っ伏した。


 それからのことは、よく覚えていない。

 確か警察に聴取され、親族がいるかなど聞かれたが、彼は天涯孤独の身。 死体解剖の結果が数日後に届き、死亡原因は餓死で、体重は三十キロもなかったと知らされた。

 役所の手続きは、おれが責任を持ってさせてもらった。

 健司は葬式も挙げず、火葬のみ。無縁仏になり、寺の大きな仏像に生まれ変わるそうだ。



 健司、おまえは机にメモを残していたよな。

『今日はスープなら大丈夫だと思った』

 冷蔵庫には大量の半額弁当があったな。

 手はつけられていなかったけど。

 腐ったバナナのにおいは、ひどいものだったよ。

 ミキサーは使ったらすぐに洗ったほうがいいぞ。

 知らせを聞いた中村は、泣きじゃくって化粧がとれていたよ。


 おれは健司が好きだったせんべいを供えて、黙祷する。

 太ってても、元気な健司の方がおれは好きだ。

 もう、健司は帰ってこない。

 その事実だけが、おれの中でしこりとなって残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歯だけが残る 江藤ぴりか @pirika2525

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画