風間家
客席の椅子は硬かった。
体育館のパイプ椅子よりはましだが、落ち着かない。背もたれに体を預けるたび、場違いな場所に来てしまった気がした。
舞台の上では、照明が淡く揺れている。
聞き慣れない音楽。聞き慣れない空気。
帰りたい、と一瞬思った。
だが、隣を見ると妻が黙って前を見ていた。逃げ道を塞ぐように。
幕が上がる。
最初は、正直よく分からなかった。
男だとか女だとか、そういう以前に、動きの意味が掴めない。
だが、しばらくして気づいた。
視線が、ひとりの踊り手に吸い寄せられていることに。
薪男だった。
体は細い。
昔から変わらない、折れそうな背中。
なのに、床を蹴る足だけは、妙に強かった。
あいつは、逃げていなかった。
少なくとも、今この瞬間は。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
信念か、偏見か、それとも父親としての虚勢か。
名前のつけられない破片が、静かに落ちていった。
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照明が当たるたび、息子の影が床に伸びる。
その影を見て、涙が出そうになった。
私はずっと、守る側に立っているつもりだった。
でも、今わかった。
あの子は、守られるために踊っているんじゃない。
立つために踊っている。
自由という言葉で包んだつもりが、実は檻を作っていたのかもしれない。
かわいそうと言わないことで、同情していた。
夫の肩が、少しだけ下がっているのが見えた。
あの人も、今、壊れているのだと思った。
壊れるのは、悪いことじゃない。
直すためなら。
舞台の中央で、薪男が一瞬だけこちらを見た。
目が合ったかどうかは分からない。
でも、私はうなずいた。
「見てる」ではなく、「すごいね」と伝えるために。
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ライトが眩しい。
客席は暗くて、誰の顔も見えない。
それでいいと思った。
見られるのは、踊りだけでいい。
でも、音楽が一段落した瞬間、なぜか分かった。
両親が来ている。
理由はない。
空気の重さが、少しだけ変わった気がした。
怖かった。
評価されることも、否定されることも。
だから、床を強く踏んだ。
逃げないために。
価値があるかどうかなんて、どうでもいい。
ただ、ここにいる。
それだけを体で言った。
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拍手が起きた。
俺も、遅れて手を叩いた。
上手いかどうかは分からない。
でも、嘘じゃないことだけは分かった。
終演後、楽屋の前で待った。
何を言うかは、決めていなかった。
薪男が出てきた。
汗で前髪が張り付いている。
「……」
言葉が詰まった。
だから、こう言った。
「お疲れ様、頑張ったな」
それだけ。
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それだけで十分だった。
それだけでよかった。
認められなくてもいい。
ただ、哀れまれていない。
それが分かった。
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三人で並んで歩く帰り道。
会話は少ない。
でも、足音は同じ速さだった。
バレエを始めた息子 @AsuAsaAshita
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