第2話 ホストとケーキ⑤
シャワーを浴びながら、私は久しぶりにキレて女の子たちに
手を出したことを、ほんの少しだけ反省していた。
売られた喧嘩とはいえ、もうちょい我慢できたんじゃないか
――と、遅れてくる大人の理性。
ふぅ、と息を吐いてタオルで髪を拭き、鏡を見る。 頬が赤い。
しかも少し腫れている。 ……これ、あとからもっと来るやつだ。
「うわ、やだな……」
指先で触れると、じんと痛みが返ってきた。
(この顔じゃ、樹々兄のところ行けない)
心配させたくない。それに原因を聞かれたら詰む。
ストーカーの件まで芋づる式にバレたら、説教一時間コース確定だ。
樹々兄、怒ると怖いんだよ。綺麗な顔で、笑いながら、容赦なく。
浴室を出てリビングへ行くと、テーブルの上に一枚のメモが置いてあった。
――今夜は遅くなる。夕飯はお隣にお願いしてある。
「……マジですか」
固まる。
この頬で隣に行くのは無理だし、そもそもケーキを食べ過ぎて胃は満腹状態だ。
どうする、私。 そう考えた瞬間。
BU—BU—BU—BU—
携帯が震えた。 画面には、樹々兄の名前。
「……うわ……」
いつもならワンコールで出る。出たい。出たいのに出られない。
頬の腫れも、今日の路地裏も、全部聞かれたくない。
(神様、これはストーカーの罰ですか?)
私は携帯にクッションを被せるという最低の現実逃避を決行し、
そのまま自室へそっと逃げ込んだ。
「……どうしよう」 居留守は使った。
でも相手は“お隣さん”だ。突撃訪問の可能性が普通にある。
自室にいたら、私室突撃→説教部屋直行便。
それだけは避けたい。絶対に。
(隠れるしかない……)
視線を彷徨わせて、私は決めた。
両親の部屋のウォークインクローゼット。
あそこなら、さすがに入ってこない。……はず。
私は飲み物と小さな灯りを確保し、ブランケットとクッションを抱えて、
親のクローゼットへ潜り込んだ。
扉を閉めた瞬間、狭い闇に心臓の音だけが響く。
ほどなくして―― ピンポーン。 玄関のチャイム。 続
けて、鍵が開く音。
(ひぃ……!)
足音が階段を上がってくる。 私の部屋の方向へまっすぐ。
やめて、やめて、やめて。
「胡桃いるー?」
呼ばれて、条件反射で返事しそうになった口をクッションで塞ぐ。
ガチャリ。ドアが開いて、すぐ閉まる。
(……いないって、わかった?)
足音が遠ざかる。 私は肺の空気をやっと吐く。
(よし……帰った……?)
そう思ったのに。 足音が、止まった。 親の部屋の前で。
(……え? まさか……)
心臓がドクドク暴れる。 でも――扉は開かない。
足音は、静かに階段を下りていく。 玄関のドアが閉まる音。
鍵をかける音。
「……よ、よかった……」
私はようやく息をした。
大好きな樹々兄なのに、隠れなきゃいけないこの状況が切なくて、
目の奥が熱くなる。
(せっかく来てくれたのに……ごめんなさい……)
クッションに顔を埋めたまま、疲労が一気に襲ってきた。
色々ありすぎた。今日はもう無理。
私はそのまま、静かに目を閉じた。
◆
目が覚めると、最初は状況がわからなかった。 闇。狭い。布の匂い。
……あ。 親のクローゼット。
そっと扉を開けると、家の中は静かだった。
両親はまだ帰っていない。時計を見ると、夜の十時を回っていた。
「……寝すぎた」
私は暗いまま階段を降り、リビングの灯りを点ける。
クッションに埋めた携帯を掘り起こすと、着信履歴がいっぱいで
胸がぎゅっと痛くなった。
「……ごめんなさい」
思わず呟いた、その背後。
「謝るくらいなら、出なさいよね」
声がして、私は携帯を取り落とした。
床にぶつかる音がやたら大きい。画面割れたかもしれない。
今はそれどころじゃない。
いつから? 帰ったんじゃなかったの?
凍りついた私の肩を、ぐっと掴まれて強引に振り向かされる。
そこにいたのは――樹々兄だった。 片眉を上げて、私の頬を見ている。
「なるほどね。……その顔のせいで、私に会えなかった?」
「……っ」
「“どうしたの?”って聞かれるのが嫌だったんでしょ」
樹々兄が淡々と続けた。
「残念だけど、愛島から電話があったわよ。全部聞いたわ」
終わった。 嫌われた。呆れられた。 胸が潰れて、涙がぽろりと落ちた。
「……馬鹿ねぇ」
樹々兄は呆れたように息を吐いて、それから――指先で私の涙を拭った。
「怒るわけないじゃない。何年の付き合いだと思ってるの。 ただ、すごく心配したのよ」
その言葉に、涙が余計に出た。
「だって……ストーカーしたし……」
「ああ……それね」
樹々兄がにこりと笑う。 その笑顔、怖いやつだ。
「それは怒るわね」
「……ごめんなさい」
私が縮こまると、樹々兄は話を切り替えるように言った。
「それより。愛島の馬鹿と一緒にいたでしょ? デートじゃない」
「で……デートじゃないよ!愛島さんは好みじゃないし!」
慌てて否定すると、樹々兄は目を細める。
「んー。そう? ならいいけど」
(あ、そこは重要じゃないんだ)
「でも、相手はもっと慎重に選びなさいね。
あんな変態ホスト、私は反対だから」
「……そこ!?」
がっくり肩を落とした私の頬に、樹々兄の指がそっと触れた。
「頬……痛む? まだ腫れてるわね」
好きな人の前で、こんな顔を晒したくなかった。
でも、目の前の心配そうな顔を見ると、胸がじんと熱くなる。
私はマジマジとその顔を見つめた 。
「何?そんなに見つめると穴が開くわよ?」
「……相変わらず綺麗だなって思って」
「馬鹿ね。照れるからやめなさい」
樹々兄は軽く私の額を小突き、ソファへ座らせた。
「ほら、手当てするからこっち」
湿布を頬に貼られる。冷たくて、少しだけ落ち着く。
「大丈夫よ。腫れてても胡桃は可愛い」
――その“可愛い”が、恋愛の可愛いじゃないのはわかってる。
身内みたいな、妹みたいな、そういう“可愛い”。
わかってる。わかってるのに、嬉しいのが悔しい。
樹々兄は念押しする。
「ただし無茶はダメ。いいわね」
「……うん」
「Good girl」
そう言って、樹々兄は私の頬に軽くキスをした。
「――っ」 脳が一瞬、真っ白になる。
私は真っ赤になって、近くのクッションに顔を埋めた。
(ご褒美……ご褒美……ご褒美……)
樹々兄はくすくす笑い、私の頭を撫でた。
私はクッション越しに息を吸って、心の中で静かに誓う。
(この王子様の呪いが解けて、恋愛対象が女性になるまで――)
私は、王子と並べるくらい強い姫でいる。
守られるだけじゃなくて、守れる姫でいる。
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