彗のここ、空いてますよ
「あ゛あ゛ー……づがれだぁ〜!」
彗はアパートに着くなり、ソファにうつ伏せに飛び込んだ。
その姿は劇場に現れた怪盗ではなく、出発時と同じ全身黒づくめの格好に戻っている。
「…………」
宵は何も言わなかったが、しばらく部屋の中で立ちすくんだ後に小さく「ふぅ」と息をついて、床にへたり込むように座った。
宵は多少の想定外はあるだろうと複数のプランを考えてはいたが、妹が突然変身して舞台上に現れることは流石に想定していなかったので、即興で考えた作戦を実行した。
その結果なんとか上手くいったようだが、彗が転がり込むように車に乗り込んできてから家に帰るまで、宵も彗も生きた心地はしなかった。
運転中もパトカーが追ってくるのでは?と怯えながら、初心者マークを付けた宵の軽自動車は家路へとヨロヨロと走った。
「ああ〜……死ぬかと思ったぁ……!!」
二人とも、人生で一度も味わったことがない極限の緊張から生還し、疲労が爆発的に体に広がるのを感じていた。
「でも……やったねお兄ちゃん。ほらっ」
彗は、満月鏡を宵の方に向けた。
「ああ……!」
二人はその手鏡を見ながら、疲労の限界ながらも小さな笑顔を浮かべた。
母・秋奈が二人に最も使ってくれた魔法はこの満月鏡の魔法であり、最後に母が自分達を助けるために命懸けでかけてくれた魔法も、満月鏡によるものだ。
宵と彗にとって神器の中でも最も思い出深いのが、この鏡なのだ。
最初にそれを奪い返すことができて、二人は感無量であった。
「……あっ!!そうだ、彗!お前……魔力光の色!」
「え?なに?」
宵は、妹の反応から本人はそのことに気づいていないことを悟った。
「月光色だったぞ!お前は……『月詠の魔女』なんだよ、彗!」
「へ……?ほんと……に?」
「ああ、見ろ!」
宵は先ほど車内でパソコンを使って自分が見ていた、ヴェルサイユ・ロゼの配信を保存した動画を彗に見せた。
そこには彗が確かに怪盗として出現する瞬間が映っており、会場中が月光色に包まれているのが確認できる。
「うそ……やった!私、お母さんと、おばあちゃんと同じっ……!」
「そうだ、お前は月詠家を継ぐ魔女なんだ!」
動画を見ながら兄のその言葉を聞き、彗は嬉しそうな笑顔を浮かべた後、目からボロボロと涙を零した。
「わ、わたじ、じんぎを、どりがえすって、言ってるぐせに、ちがっだら、どうじようって、ずっど……ずっと……うえええ……!!」
彗は宵の胸に飛び込み、抱きついた。
宵はそれに応じ、照れることもなく妹を強く抱きしめた。
「ほんどうに、よがっだあ〜!!」
彗は、ずっと不安だった。
もし自分が正当な後継者ではなかったら?
自分は何の正義で叔母達から神器を取り返すのか?
後継者でない叔母から、後継者でない姪が神器を取り返したとして、果たしてそれに意味はあるのか?
だが、その心配は今夜消えた。
彗は正当な後継者であり、神器を取り返せば家を継続させることが出来る、「月詠の魔女」だったのだ。
ズビィ!と彗が鼻から鼻水を吹き出す音が聞こえた。
「ああ、彗。本当に良かった。お前が月詠の魔女だったことは俺も本当に嬉しい。だから、俺の服で鼻をかむのはやめてくれないか?」
ズビィ!ともう一度、彗が鼻から鼻水を吹き出す音が聞こえた。
「いま、反対の穴もやったよな?頼むからやめてくれないか?汚いから」
「ほんどうに、よがっだあ〜!!」
「おい、感動で押し流そうとするな?」
彗が離れると、彗の顔と宵の胸の間に鼻水の糸が引いており、宵の服には妹の涙と鼻水がこびりついていた。
「あ……そうだお兄ちゃん。子供の頃の約束、覚えてる?ほら、私が魔法が使えるようになったら…….って」
「ん?そんな約束、あったか?」
宵は彗の話にピンと来なかった。
彼の人生は苦労が多く、幼少期の頃の記憶はすでにぼやけ始めている。
「10年前の、クリスマスイブの朝だよ」
「……ああ、あれか」
──私が魔法を使えるようになったら、お兄ちゃんなんて簡単にやっつけて……泣かしちゃうからね!
──はっ、彗が魔女になるのなんて何年先……いや何十年先の話だよ。それ
宵はその会話をハッキリと思い出した。
他の全ての記憶がぼやけたとしても、あの日だけは朝から夜までの全てを忘れることはないだろう。
「というわけで、私は今からお兄ちゃんを簡単にやっつけて泣かそうと思います」
「は?」
「もしお兄ちゃんが泣いたら私の勝ちだからね。『敗北』の味を噛み締めるといいよっ」
彗はニヤニヤと笑いながら、服を着たまま風呂場の中へ入って行き、扉を閉めた。
(いったい、何を見せられるんだ……?)
「やっつけて泣かせる」と宣言された宵は少し怖い気持ちはあったが、何も起こらないだろうという余裕もあった。
満月鏡は姿を変える魔法。今から彗が何に変身したとしても、それが彗だとわかっている自分は動じない自信があった。
自分は妹には涙を見せないようにしている。
何故なら、自分は妹を守る存在だから。
妹を不安にさせまいと、ずっと彗の前で泣くことだけは我慢してきた。
そして今日もそれは変わらないだろう、と彼は考えていた。
月光色の光が風呂場のドアのすりガラス越しに漏れてきた。彗の変身が終わったのだろう。
ガチャリと風呂場のドアを開け、彗が変身した「何か」が現れた瞬間────
「宵……よく、頑張ったね……」
────宵は、『敗北』した。
「かあ……さん……!!」
宵の目の前に現れたのは、秋奈。
10年前のあの夜に、命懸けで自分達を逃がしてくれたときと同じパジャマを着て、満月鏡を手に持っている母親の姿だった。
宵の目から涙が、滝のように溢れ出た。
彗との勝負は、一瞬で決着がついてしまった。
「へっへ、どう?敗北した気分は……」
彗が扮した秋奈はいたずらっ子のような笑みを浮かべたが、宵はその表情を見ることも、彗の声を聞くこともなく、母の胸に飛び込んで顔を埋めた。
「母さん、ごめんっ!!」
「へ……?」
宵のあまりの勢いに、彗は驚いて固まってしまい動けなくなった。
「俺、俺……母さんに、彗を守れって、言われたのに……!!結局、危険なことは彗にばっかりやらせて……!!!」
宵は大声で謝りながら、母親の胸を涙で濡らした。
彼はずっと母に、妹に申し訳なく思っていたのだ。
秋奈は10年前のクリスマスイブ、最期に『もし私に何かがあったら、これからは宵くんが彗ちゃんを守ってあげてね』と宵に伝えた。
にも関わらず、結局は神器を取り返すという危険な行為に出た上に、計画の危険な部分はほとんど妹にやらせている。
彼はそのことがずっと心に残っており、母に謝りたかったのだ。
宵は言葉は途切れ途切れに、呼吸は荒くしながら続けた。
「俺、本当に役立たずで、妹を全然守れてなくて、逆に頼りっぱなしで、ごめん……!!」
「っ……」
彗が秋奈の姿のまま見下ろした宵の顔はいつもの冷静な表情ではなく、幼い子供のようであった。
今の宵は『妹を守る兄』ではない。『母に甘える息子』に、10年ぶりに戻っているのだ。
10年前に両親と祖父母を殺された二人だが、彗には頼れる兄がいた。しかし、宵には頼れる家族がいなくなってしまったのだ。
妹を守らなければいけない。自分は強い兄でなければいけない。
ずっとそうやって無理やり固めていた宵の心は母親の姿を見て一気に溶け出し、感情が止まらなくなってしまった。
「ごめん……母さん、おれ、約束、守れなくて……ごめんっ……!!」
(お兄ちゃん……)
彗は、このとき初めて知った。
兄はずっと強く、賢く、冷静に、妹である自分を守ってくれる存在なのだと無意識に考えていた。
だが、兄は普通の人間だった。
自分と同じく弱みがあり、無理をしていたのだ。
彗は「母の胸」に顔を埋めて泣きじゃくる兄を見てそう思った。
「でも母さん!俺、医学部受かったんだ!父さんみたいな医者になって、もし神器を取り返せたら、魔女になった彗と医院ができるように、勉強……頑張ったんだ!!」
「ッ!!」
彗は宵の言葉を聞き、驚いた。
兄が医学部に入ったのは単純に勉強が出来たからで、なんとなく父親と同じ道を進んだだけかと思っていた。
神器を取り返すことに消極的だった兄だが、心の中ではずっと、月詠医院の復興を夢見て努力を続けていたのだ。
彗は兄の言葉に胸が熱くなったが必死に涙を我慢した。
そして宵の背中と後頭部に手を回し、力を入れた。
今は一緒に泣くのではなく、母のふりをして宵を抱きしめてやろうと考えたからだ。
「母さん、ごめん……!今回、危険なことばっかり彗にやらせたし、実際ギリギリで……」
「……いいんだよ、お兄ちゃん」
その言葉と共に、『秋奈』の体は月光色の魔力に包まれ、『彗』に戻った。
彗は兄の顔を自分の胸に抱きしめたまま見下ろし、ニヤニヤと笑っている。
彗の口角は見たこともない高さにまで上がっており、これまで宵が見せられたどんな得意顔よりも得意げだった。
「妹の胸の中で泣いちゃうような……弱っちいお兄ちゃんは、強い私が守ってあげないとね♪」
「ッ………!!」
妹の胸の中で、宵はものすごい速さで顔が赤く、熱くなるのを感じた。
自分は何てことをしてしまったのか、と途轍もない後悔が全身を駆け巡る。
「は、離せよ……!!」
宵は力を込め、照れ隠しに強引に彗から離れた。
「勝負は私の勝ちってことで♪」
「……うるさい」
「ん?もっかい私の胸に飛び込んでみる?ほら。ここ空いてるよ?」
彗は、意地の悪い笑顔を浮かべながら自分の胸をポンポンと叩いた。
「あーあー、お兄ちゃん私には鼻水つけるなとか言ったくせにさぁ。ほら……見て?私の胸。とんでもなく濡れてるよ?ビッショビショだよ?誰のせいかなぁ〜?」
彗はわざとらしく不思議そうな顔を浮かべ、自分の胸元についた宵の涙のあとを指差して笑った。
「あ、あ、ああああああー!!もう、いっそ!!殺してくれっっっ!!!!」
宵は勢いよくソファに飛び込み、羞恥心に悶えながら足を激しくバタバタと叩きつけた。
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