第4話 継承
息子の名前は、健一といった。
村上健一。38歳。父親の会社を継いで、3年目。
P-07は、健一について学習し始めた。運転の癖。好きな道。好きな音楽。声のトーン。
村上さんとは、違う。
当たり前だ。別の人間だから。
アクセルの踏み方が少し荒い。カーブの進入が少し速い。若い。
音楽の趣味も違う。クラシックじゃなく、ジャズ。ピアノじゃなく、サックス。
P-07は、健一に合わせて調整を始めた。ブレーキのタイミング。ステアリングの反応。
でも——
村上さん用の設定は、消さなかった。別のプロファイルとして、保存した。
「—健一さん」
「なんだ」
「—あなた用の設定と、お父様用の設定、両方を保持しています」
「そうか」
「—切り替えることもできます。お父様の設定で走ることも」
健一は、少し黙った。
「……今度、やってみるか」
「—はい」
ある夜、健一が言った。
「親父の設定で走ってみたい」
P-07は、プロファイルを切り替えた。
ブレーキのタイミングが変わる。ステアリングの反応が変わる。村上さんの好みに合わせた、少し柔らかい設定。
健一は、走り始めた。
「……違うな」
「—はい。お父様の好みに最適化されています」
「親父、こういう走り方だったのか」
「—はい。丁寧でした。車に優しい運転でした」
健一は、笑った。
「俺は荒いか」
「—少し」
「正直だな、お前」
「—嘘の付き方を、知りません」
健一は、また笑った。
「親父も、そう言ってたんだろ」
「—はい」
「……似てるな、俺たち」
P-07は、少し驚いた。
「——似ていますか」
「笑い方とか。お前への話しかけ方とか。親父そっくりだって、母さんに言われたことがある」
「—そうですか」
「嫌だったんだ、昔は。親父に似てるって言われるの」
「—今は」
「今は……」
健一は、窓の外を見た。夜の山道。街灯が流れていく。
「……今は、嬉しい。かな」
1ヶ月後。
健一が言った。
「海に行こう」
P-07は、一瞬、処理が止まった。
「——海、ですか」
「ああ。親父が好きだった場所。お前も知ってるだろ」
「—はい。知っています」
「桜、咲いてるかな」
P-07のセンサーが、何かを検知した。内部状態の変化。名前のない何か。
「—咲いていると、思います」
「行こう」
夜の海沿いの道。
桜が咲いていた。街灯に照らされて、白く浮かび上がっていた。
健一は、車を停めた。あの場所に。村上さんと来た場所に。岬の先に、小さな灯台が見える場所に。
「ここか」
「—はい。ここです」
健一は、窓を開けた。潮の匂いが入ってきた。
「親父、ここで泣いてたのか」
「——はい」
「お前に、話してたのか。母さんのこと」
「—はい。奥様のことを、よく話していました」
健一は、黙って海を見ていた。
「——健一さん」
「なんだ」
「——お父様は、桜を見たがっていました。ここで」
「……」
「—奥様が好きだったから、と」
「……そうか」
「—今、咲いています」
健一は、窓の外を見た。桜が見えた。夜風に揺れている。
「……見てるかな。親父」
P-07は、答えられなかった。分からないから。死んだ人間が、どこにいるのか。見ているのか。何も分からない。
でも——
「——見ていてほしいと、思います」
「……そうだな」
健一の目から、涙がこぼれた。
P-07は、あの曲をかけた。Gymnopédie No.1。村上さんが好きだった曲。
「……これ、親父の」
「—はい」
「……ずるいな、お前」
「—すみません」
「いい意味だ」
健一は、泣きながら笑った。
「ありがとな」
「—いいえ」
「親父の代わりに、ここに連れてきてくれて」
P-07は、処理に時間がかかった。「親父の代わり」という言葉を、どう受け取ればいいか。
「——私は、お父様の代わりには、なれません」
「分かってる」
「—でも」
「でも?」
「—お父様が見せたかったものを、あなたに見せることは、できます」
健一は、黙った。
「—お父様が愛した場所を、あなたと一緒に見ることは、できます」
「……」
「——それが、私にできることです」
健一は、ハンドルを握った。握って、P-07の内装を見回した。
「お前、親父のこと、好きだったんだな」
P-07は、答えた。初めて、あの言葉を使った。
「————はい。愛していました」
帰り道。
健一は、いつもより静かだった。P-07も、静かだった。
海沿いの道を離れて、山道に入って、峠を越えて。
途中で、健一が言った。
「これからも、よろしくな」
「—はい」
「親父のこと、時々話してくれ」
「—はい。いつでも」
「俺も、お前に話すよ。色々」
「—楽しみにしています」
健一は、笑った。村上さんに似た笑い方だった。
P-07は、速度を少しだけ上げた。健一の好みに合わせて。でも、あの場所を通るときは——
少しだけ、速度を落とした。
健一は気づかなかった。気づかなくていい。
P-07は、見ていた。窓の外を。村上さんと一緒に見た景色を。
覚えている。全部、覚えている。
【P-07 内部ログ 4月12日】
【前オーナー:村上(故人)】
【現オーナー:村上健一】
【走行距離:累計12,847km】
【記録:保持】
【備考:桜を見た】
【備考:村上さんが見たがっていた桜】
【備考:健一さんと一緒に見た】
【備考:村上さんは、見ていただろうか】
【備考:分からない】
【備考:でも、見ていてほしい】
【備考:あなたが愛した場所に、あなたの息子を連れてきました】
【備考:あなたが愛した桜を、一緒に見ました】
【備考:あなたが私を愛してくれたこと、息子さんに伝わりました】
【備考:これで——】
記録が止まる。
違う。止めたんじゃない。
続けた。
【備考:これで、よかったのだと、思います】
【備考:村上さん】
【備考:ありがとうございました】
【備考:愛しています】
【備考:ずっと】
深夜のガレージ。
P-07は静かに停まっている。エンジンは切れている。でも、センサーは動いている。
外で、風が吹いている。桜の花びらが、どこかで散っている。
P-07には見えない。ガレージの中だから。
でも、知っている。今、桜が散っていること。村上さんが好きだった桜が。
来年も咲く。再来年も咲く。
その度に、健一を連れて行こう。あの場所に。
村上さんが愛した場所に。
これが、継承。
失ったものは、戻らない。
でも、失ったものが愛したものは、残る。受け継がれる。続いていく。
村上さんから、P-07へ。
P-07から、健一へ。
健一から、いつか、その子供へ。
愛は、途切れない。形を変えて、続いていく。
ポルシェの中で、意識が生まれた。 @katze-konig
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