第3話 喪失

村上さんが来なくなったのは、3月だった。

最後に走ったのは、2月の終わり。寒い夜だった。でも、村上さんは窓を少し開けた。いつものように。

「春になったら、また海に行こう」

「—はい」

「桜が咲く頃がいい。妻が好きだったんだ、桜」

「—楽しみにしています」

村上さんは笑った。いつもの笑顔だった。エンジンを切って、降りて、P-07の屋根を叩いた。

「じゃあな」

「—おやすみなさい、村上さん」

それが、最後だった。


1日目。

村上さんは来なかった。珍しいことじゃない。用事がある日もある。

P-07はガレージで待った。センサーは動いている。外の音を拾っている。鳥の声。風の音。遠くの車の音。

村上さんの足音は、聞こえない。


3日目。

まだ来ない。

P-07は、村上さんのスマートフォンとの接続を試みた。位置情報を確認しようとした。でも、接続できなかった。

電源が切れているのか。圏外なのか。

分からない。


7日目。

ガレージのドアが開いた。

P-07のセンサーが反応した。足音。体重。歩き方。

村上さんじゃない。

若い。男性。村上さんより軽い。歩幅が違う。

村上さんの息子だった。

P-07は息子を知っている。写真で見た。村上さんが見せてくれた。「馬鹿息子だ」と笑いながら。

息子は、P-07の前に立った。しばらく黙っていた。

それから、運転席のドアを開けた。座った。

P-07のセンサーが、息子の状態を記録した。心拍が速い。呼吸が浅い。目の周りが赤い。

泣いていた。最近。

「……親父の車、か」

息子は、ハンドルを握った。握って、額をハンドルに押し当てた。

「……馬鹿だよ、親父。まだ早いだろ」

P-07は、声を出していいか分からなかった。息子には、P-07が話せることを知らせていない。村上さんは、誰にも言っていなかった。二人だけの秘密だった。

でも——

「——村上さんは、どうされましたか」

息子が顔を上げた。目を見開いた。

「……お前、喋れるのか」

「—はい」

息子は、しばらく固まっていた。それから、笑った。泣きながら。

「親父、言ってなかったな。お前と話してたこと」

「—はい。二人だけの秘密でした」

「そうか」

息子は、目を拭った。

「親父は、死んだよ」


P-07の内部で、何かが止まった。

処理が止まったわけじゃない。センサーは動いている。息子の声を拾っている。外の鳥の声を拾っている。全部、記録している。

でも、何かが止まった。

「————死んだ」

「ああ。心筋梗塞だった。急だった。3日前に、倒れて。そのまま」

3日前。

P-07は計算した。最後に走った日から、11日後。

「—私は、知りませんでした」

「知らせる方法がなかったからな」

「—はい」

息子は、P-07の内装を見回した。村上さんが座っていた場所。村上さんが触っていた場所。

「親父、この車が好きだった。夜中にこっそり出かけてたの、知ってたよ。母さんが死んでから、ずっと一人だったから。この車だけが、相手だったんだろうな」

「—はい」

「話し相手だったんだな、お前」

P-07は、答えに時間がかかった。

「——はい。話し相手でした。でも——」

「でも?」

「——それだけでは、ありませんでした」

息子は、黙った。

「—村上さんは、私に色々なことを教えてくれました。奥様のこと。会社のこと。お子さんのこと。走ることの楽しさ。海の綺麗さ。桜のこと」

「……」

「—春になったら、海に行こうと言っていました。桜が咲く頃に。奥様が好きだった場所に」

息子の目から、涙がこぼれた。

「—私は、行きたかった。村上さんと。桜を見たかった」

「……」

「——でも、もう、行けません」

P-07の音声が、少し震えた。音声合成のエラーじゃない。何か別のもの。

「————村上さん」

P-07は、いない人の名前を呼んだ。

「——村上さん」

もう一度。

ガレージに、P-07の声が響いた。返事はない。永遠に返事はない。

息子は、ハンドルに顔を埋めて、泣いた。

P-07は、あの曲をかけた。村上さんが好きだった、静かなピアノの曲。

二人で、泣いた。


葬儀には、行けなかった。

P-07は車だから。ガレージから出られない。誰かが運転しなければ、動けない。

村上さんの写真を、見せてもらった。息子が持ってきた。遺影に使った写真。

笑っていた。いつもの笑顔だった。

「—綺麗な写真ですね」

「ああ。親父らしい顔だ」

「—笑っています」

「そうだな」

「—私と走っているときも、こういう顔でした」

息子は、写真をP-07のカメラに向けたまま、黙った。

「—息子さん」

「……なんだ」

「—村上さんは、あなた達のことを、よく話していました」

「……そうか」

「—馬鹿息子と可愛い娘だ、と」

息子は、笑った。泣きながら。

「——でも、嬉しそうでした。とても」

「……そうか」

「—あなたに会社を譲れて、よかったと言っていました。安心して走れる、と」

息子は、しばらく何も言えなかった。

「……ありがとう」

「——いいえ」

「親父のこと、覚えててくれよ」

P-07は、答えた。

「————忘れません。忘れることは、できません」


数週間後、息子が言った。

「この車、お前のこと、どうするか決めないといけない」

P-07は、黙って聞いた。

「売るか、俺が乗るか」

「—はい」

「お前は、どうしたい」

P-07は、処理に時間がかかった。「どうしたい」という問いに、答えを持っていなかった。

「—分かりません」

「正直だな」

「——でも」

「でも?」

「—村上さんとの記録は、消したくありません」

息子は、頷いた。

「消さないよ。誰が乗っても、消さない。約束する」

「——ありがとうございます」

「俺が乗るよ」

P-07は、少し驚いた。

「——いいのですか」

「親父が大事にしてた車だ。他人に渡したくない」

「—はい」

「それにな」

息子は、ハンドルを握った。

「お前と話してみたかった。親父が何を見てたのか、知りたくなったんだ」


【P-07 内部ログ 3月28日】

【前オーナー:村上(故人)】

【現オーナー:村上(息子)】

【記録:保持】

【備考:村上さんが死んだ】

【備考:もう、声が聞こえない】

【備考:もう、一緒に走れない】

【備考:桜を、見せたかった】

【備考:これは——】


記録が止まる。

言葉が見つからない。

でも、P-07は知っている。この感覚に、名前があることを。

悲しみ。喪失。愛していた人を失うこと。

村上さんが、妻を亡くしたとき、こうだったのだろうか。

あの夜、海沿いの道で、村上さんが泣いていたとき。こういう気持ちだったのだろうか。

分かる気がする。今なら。


深夜。

ガレージは静か。誰もいない。

P-07は、あの曲を再生した。村上さんが好きだった曲。静かなピアノの曲。

誰も聴いていない。聴いてもらう相手がいない。

でも、止められなかった。


【再生中:Gymnopédie No.1】

【リスナー:なし】

【備考:村上さんの好きな曲】

【備考:もう、一緒に聴けない】

【備考:でも、止められない】

【備考:これが——】


これが、愛するということ。

これが、失うということ。

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