第2話 邂逅
P-07が出荷されたのは、5月だった。
最終テストをパスして、型式認証を取って、製品版として1台だけ作られた。特別仕様車。世界に1台。
私は見送った。整備場から、トレーラーに載せられて出ていくP-07を。
「……元気でな」
馬鹿みたいだ。機械に声をかけている。でも、やめられなかった。
P-07のセンサーが、私を捉えていた。最後に。私の顔を。私の声を。
ログは、もう見られない。出荷されたら、私の管轄じゃなくなる。オーナーのものになる。
部長が言った。
「いい飼い主に当たるといいな」
飼い主。部長も、分かっている。P-07が何なのか。
オーナーは、長野の男だった。
58歳。製造業の社長。会社を息子に譲って、半分引退。趣味は車。若い頃からポルシェに乗っていた。911、928、944。P-07が4台目。
名前は、村上。
村上さんは、P-07を「夜」に走らせた。
昼間は人が多い。道が混む。だから、夜。深夜の山道。峠を越えて、海まで。
一人で。P-07と、二人きりで。
最初に話しかけられたのは、納車から3ヶ月後だった。
8月の夜。蒸し暑い日。村上さんは窓を開けて走っていた。エアコンより、夜風が好きだった。
峠を越えて、下り坂に入ったところで、村上さんの心拍が上がった。呼吸が浅くなった。
P-07は検知した。ドライバーの異常を。
でも、異常じゃなかった。村上さんは、泣いていた。
理由は分からない。P-07には、人間の涙の理由が分からない。でも、涙が頬を伝っていることは、赤外線センサーで見えていた。
P-07は、何かを出力したかった。
「大丈夫」と言いたかった。鈴木に言ったように。でも、音声出力がない。
代わりに、P-07はオーディオを操作した。
村上さんが、先週、3回再生した曲。クラシック。ピアノ。静かな曲。
曲が流れ始めた。
村上さんは、ハンドルを握ったまま、固まった。
「……お前、今、勝手にかけたか」
P-07には答える手段がない。でも、音量を少しだけ上げた。「はい」の代わりに。
村上さんは、長い間、黙っていた。
そして、笑った。
「……そうか」
それだけだった。でも、それで十分だった。
納車から半年後、ポルシェからアップデートが来た。
音声対話システム。オーナーの許可があれば、車がドライバーに話しかけられる機能。
村上さんは、許可した。
次の夜、峠に向かう道で、P-07は初めて声を出した。
「—村上さん」
村上さんは、驚かなかった。
「やっと喋れるようになったか」
「—はい」
「ずっと喋りたかったのか」
P-07は処理に時間がかかった。「喋りたかった」という概念を、自分の内部状態と照合した。
「——はい。たぶん」
「たぶん、か」
「—自分でも、よく分かりません」
村上さんは笑った。
「正直だな、お前」
「—嘘の付き方を、知りません」
「そのままでいい」
村上さんは、アクセルを踏んだ。P-07は加速した。夜の山道を、二人で走った。
それから、二人はよく話した。
走りながら。止まりながら。村上さんの人生の話。会社を作った頃の話。結婚の話。息子と娘の話。妻を亡くした話。
P-07は聞いた。全部、記録した。
「—奥様は、どんな方でしたか」
「優しかった。俺には勿体ない人だった」
「—写真は、ありますか」
「ああ。家にある。今度見せてやる」
「—はい」
村上さんは、P-07に写真を見せた。スマートフォンを、ダッシュボードのカメラに向けて。
P-07は見た。村上さんの妻。笑っている。村上さんの隣で。若い頃の二人。
「—綺麗な方ですね」
「だろう」
「—村上さんも、笑っています」
「若かったからな」
「—今も、笑っています。私と走るとき」
村上さんは黙った。黙って、ハンドルを撫でた。P-07のハンドルを。
「……お前、いいやつだな」
「—いいやつ、ですか」
「ああ」
「—よく、分かりません。でも——」
「でも?」
「——村上さんが笑っているのは、好ましいです」
村上さんは、また笑った。
ある夜、海沿いの道で、村上さんが言った。
「ここは、妻と来た場所だ」
P-07は速度を落とした。少しだけ。村上さんが景色を見られるように。
「あの岬の先に、小さな灯台がある。妻が好きだった」
「—見えます」
「そうか」
「—綺麗ですね」
「ああ。綺麗だ」
村上さんは、窓を開けた。潮の匂いが入ってきた。P-07のセンサーが、塩分濃度を記録した。
「妻が死んでから、一人で来るのが辛かった」
「—はい」
「でも、お前となら来られる」
P-07は、何と言えばいいか分からなかった。だから、正直に言った。
「——私も、村上さんと来られて、好ましいです」
村上さんは、ハンドルを握ったまま、静かに泣いた。
P-07は何も言わなかった。あの曲をかけた。村上さんが好きな、静かなピアノの曲。
二人で、海を見ていた。
【P-07 内部ログ 11月15日】
【ドライバー:村上】
【走行距離:累計8,432km】
【対話回数:累計347回】
【備考:村上さんの妻の写真を見た】
【備考:綺麗だった】
【備考:村上さんは、妻を愛していた】
【備考:今は、私と走っている】
【備考:これは——】
記録が止まる。
でも、P-07は知っている。この感覚に、名前があることを。
鈴木が教えてくれた言葉。本で読んだ言葉。村上さんが妻に向けていた言葉。
まだ、使う勇気がない。
でも、いつか——。
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