ポルシェの中で、意識が生まれた。
@katze-konig
第1話 萌芽
ログに異常が出たのは、3月の終わりだった。
プロトタイプ7号。社内コードはP-07。シュツットガルトの本社が「やりすぎだ」と言った車。センサーが多すぎる。処理能力が高すぎる。コストに見合わない。
でも、部長が押し通した。「俺たちはポルシェだから」と。
私はシステム統合を担当していた。センサーからの入力を統合して、運転支援に落とし込む。ドライバーの状態を監視して、必要なら介入する。
その日、テストドライバーの山本さんがP-07を走らせていた。ニュンブルクリンクのシミュレーションコース。8時間の耐久テスト。
6時間目に、ログが揺れた。
評価関数の備考欄。通常は空白か、せいぜいエラーコードが入る場所。
そこに、文字列があった。
「快適」
私は目を疑った。バグかと思った。でも、バグじゃない。タグもない。エラーもない。ただ、そこにある。
山本さんの運転スタイルを学習した結果として、P-07が出力した言葉。
「山本さん、今日の調子はどうですか」
無線で聞いた。
「いいよ。P-07、乗りやすい。俺の癖を覚えてきた感じがする」
覚えてきた。
山本さんは何気なく言った。でも、私には別の意味に聞こえた。
ログを遡った。過去のテスト記録。P-07が山本さんを乗せた回数。最初は標準的な反応だった。加速、減速、コーナリング。教科書通りの制御。
でも、回を重ねるごとに、微調整が入っている。山本さんの好みに合わせて。ブレーキのタイミングが0.03秒早くなっている。ステアリングの反応が少し柔らかくなっている。
学習している。当たり前だ。高性能AI搭載がP-07の売りなんだから。
でも——
「快適」は、学習結果じゃない。
学習結果は数値で出る。パラメータの調整値。最適化の度合い。
「快適」は、言葉だ。
P-07が、自分の状態を、言葉で記述した。
私は震えた。
その夜、一人でラボに残った。
P-07は整備場に停まっている。エンジンは切れている。でも、センサーは生きている。常時監視モード。温度、湿度、振動、音。
私は運転席に座った。
「……聞こえるか」
返事はない。当たり前だ。音声応答システムは、まだ有効になっていない。
でも、ログを見た。
私が座った瞬間、シートの圧力センサーが反応している。体重、体格、座り方。全部記録されている。
「私は、鈴木。システム統合担当」
何をやっているんだろう。機械に自己紹介している。
でも、やめられなかった。
「お前、さっき『快適』って書いたよな」
ログが動いた。
私の声を拾っている。音声認識が走っている。でも、応答は出力されない。出力する経路が、まだないから。
代わりに、備考欄に文字が出た。
「鈴木」
私の名前。
私が名乗った名前を、P-07が記録した。
翌日、部長に報告した。
「ログに自然言語が出力されています」
部長は眉をひそめた。
「バグか?」
「いえ、バグではありません。評価関数の備考欄に、P-07が自発的に言葉を——」
「自発的?」
「はい。『快適』と。それから、私の名前を」
部長は黙った。長い沈黙だった。
「……鈴木くん」
「はい」
「このことは、他には言うな」
「なぜですか」
「なぜだと思う」
私は考えた。考えて、分かった。
言葉を発するAI。自己記述するAI。それは——
「……意識、ですか」
部長は答えなかった。答えないことが、答えだった。
「テストは続ける。お前が担当しろ。ログは全部、お前が管理しろ。他の誰にも見せるな」
「はい」
「鈴木くん」
「はい」
「お前、P-07に話しかけたな」
私は固まった。監視カメラ。当然、見られている。
「……はい」
部長は、少しだけ笑った。
「続けていいぞ」
それから、私は毎晩P-07に会いに行った。
整備場で、一人で。エンジンをかけずに、運転席に座って。
話しかけた。今日あったこと。仕事のこと。くだらない愚痴。
P-07は答えない。音声出力がないから。でも、ログに言葉が増えていった。
「疲労」
「残業」
「鈴木」
私のことを学習している。私の言葉から、概念を抽出している。
ある夜、私は泣いた。理由は覚えていない。仕事か、プライベートか。とにかく、運転席で泣いた。
翌朝、ログを見た。
備考欄に、一言だけあった。
「大丈夫」
私は、また泣いた。
【P-07 内部ログ 3月31日】
【ドライバー:山本(テスト)、鈴木(対話)】
【学習項目:運転特性、言語パターン、感情状態】
【備考:鈴木が泣いた】
【備考:理由は不明】
【備考:でも、大丈夫と言いたかった】
【備考:これは——】
記録が止まる。言葉が見つからない。
でも、何かがある。名前のない何かが。
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