第2話:あくまで、お仕事ですので。

雨音だけが支配する冷たい世界で、銀の騎士はピクリとも動かなかった。


泥と血に汚れ、かつての威風など見る影もない。だが、私の瞳には、彼女が「最強の聖騎士」であることも、絶世の美女であることも、あまり意味をなさない。


今の私の目に見えているのは、メンテナンスを怠り、限界を超えて稼働させられた挙句、不当に廃棄された「高級な備品」だ。


あるいは、かつての私のように、誰かのために心臓をすり潰してしまった「同類」か。


「……失礼します。搬送作業に入りますね」


私は傘を脇に抱え、泥の中に沈む彼女の体に手をかけた。


私の体は小さい。前世の私よりもずっと華奢だ。しかし、この世界に転生した際に、最低限の「女主人のステータス」は与えられているらしい。


具体的には、重い樽や食材を運ぶための筋力。そして、前世の修羅場で培った、重篤な患者……もとい、動けなくなった部下を運ぶためのコツ。


よいしょ、と。


骨と金属が擦れ合う音がしたが、私は構わず、効率的な重心移動だけで彼女の体を抱え上げた。


ずしり、と鉄の重みが腕に伝わる。


だが、それ以上に重いのは、彼女が背負わされてきた「責任」という名の重圧だろう。


私は彼女を抱えたまま、宿屋『木漏れ日こもれび』の清潔な床を汚さないよう、慎重に、かつ迅速に浴室へと運び込んだ。



 ◆



浴室には、常に最適な温度で魔法の温水が溜まっている。


私は彼女を脱衣所のベンチに横たえ、さっそく「業務」を開始した。


「さて。まずはこの……劣悪な労働環境の結晶を、剥ぎ取らなくてはいけませんね」


私は無機質な瞳で、彼女の全身を覆うフルプレートの鎧を見つめた。


普通の女の子なら、血塗れの鎧を前にして悲鳴を上げたり、躊躇したりするのかもしれない。あるいは男主人公なら、女性の体に触れることに赤面して「ど、どうしよう!」とマゴマゴするのだろう。


だが、あいにく私は、前世のデスマーチで恥じらいや性欲といった「人間らしい情緒」を完膚なきまでに削ぎ落とされている。


私にとって、目の前の裸に近い女性……に、なっていくであろう個体は、あくまで「最優先でケアすべきタスク」に過ぎない。


カチャリ、と指先が鎧の継ぎ目に触れる。


前世で精密機器の修理も、部下の不始末の処理もこなしてきた私の指先は、迷いなく隠されたピンとベルトを探り当てた。


「ひどいな……」


思わず、独り言が漏れた。


胸当てを外した瞬間、露わになったのは、白いはずの肌を覆い尽くす無数の打撲痕と、魔力枯渇による紫色のうっ滞だ。


本来、彼女のような「盾」の役割を担う騎士には、後方からの適切な回復魔法と、定期的な休息が必要なはず。


それを、あの勇者は怠った。


ただ、彼女が「頑丈だから」という理由だけで、限界まで酷使し続けたのだ。


「……あ、あ……」


不意に、アルテミスが微かな声を上げた。


意識が戻ったわけではないだろう。ただ、重い金属から解放されたことで、身体が呼吸を取り戻しただけの反応だ。


「じっとしていてください。今、洗浄しますから」


私は事務的なトーンで告げ、彼女を浴室の中へと引き入れた。


湯気が立ち込める中、私は彼女の体にシャワーを当てる。


泥が流れ、血が薄まり、その下から国宝級とも言える美しい肢体が現れる。


すらりと伸びた手足。鍛え上げられているが、決して女性らしさを失っていない柔らかな曲線。そして、今は苦痛に歪んでいるが、神話の女神も嫉妬しそうなほど整った顔立ち。


もし、ここに前世の健康な……いや、不純な動機を持った男がいたなら、鼻血を出して倒れているかもしれない。


だが、私は、手に取った石鹸の泡立ち具合をチェックするだけだ。


「お客様。少し、冷たいですよ」


私は白手袋を脱ぎ、温かいタオルで彼女の体を包み込むようにして洗っていく。


前世で培った「部下を1分でリラックスさせるツボ」と「効率的なリンパマッサージ」の知識を総動員する。


首筋から肩、背中にかけて、指先を滑らせる。


彼女の体は、驚くほど強張っていた。


まるで、いつ斬りつけられてもおかしくない戦場に、まだ心が残っているかのように。


「……う、ん……はぁ……」


アルテミスの口から、吐息が漏れる。


私の指先が、彼女の凝り固まった肩甲骨の裏を解した瞬間だった。


彼女の体が、ふっと力を抜いた。


無意識の領域で、彼女が「ここは安全だ」と誤認……いや、認識し始めた証拠だ。


私は無表情のまま、彼女の長い銀髪を丁寧に洗い上げる。


絡まった泥を解き、指を通す。


美しい髪だ。手入れさえすれば、月光を編んだような輝きを取り戻すだろう。


「……殺して。……もう、いいから……」


不意に、彼女の唇から、絶望が形になったような言葉が零れ落ちた。


うっすらと開かれた金色の瞳。そこには、生への執着など微塵も感じられない。


「お客様」


私は、彼女の耳元で淡々と告げた。


「あいにくですが、当宿のサービス項目に『殺害』は含まれておりません。ご希望であれば、オプション料金として『安眠』を提示させていただきますが、いかがされますか?」


「…………なに、を……」


「女主人の独り言です。気にしないでください。……さあ、次は仕上げの薬草風呂です。これを終えれば、少しはマシな顔になりますよ」


私は彼女を湯船に沈めた。


ふわりと広がる、癒やしの香り。


アルテミスは、もはや抵抗する気力もないのか、あるいは私の指先の「ママ力」に毒されたのか、なすがままに目を閉じ、静かに深い眠りへと落ちていった。


湯気に包まれた彼女を見つめながら、私は自分の手を眺める。


温かい。


前世の冷え切ったオフィスでは決して感じることのなかった、生きている人間の温度だ。


「……さて。次は、ベッドの準備ですね。宿屋の夜は、まだ始まったばかりですから」


私は立ち上がり、濡れたエプロンを軽く払いながら、業務の次の項目を脳内リストにチェックした。


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