第3話:おかわりは『オプション料金』ですよ?

深い、深い眠りだった。


死の淵は、冷たくて泥の匂いがするものだと思っていた。けれど、今、鼻腔をくすぐっているのは、天日に干されたばかりの清潔な麻と、微かなラベンダーの香りだ。


「……あ……っ」


アルテミスは、弾かれたように身を起こそうとした。


体が重い。いや、重いというよりは、あまりにも「柔らかい場所」に体が沈み込みすぎていて、自分の肉体の境界線が曖昧になっているような感覚。


視界が明滅し、金色の瞳がようやく周囲の情景を捉える。


そこは、こぢんまりとした、けれど隅々まで手入れの行き届いた客室だった。


壁に掛けられたランタンが、暖かなオレンジ色の光を投げかけている。


自分が着ているのは、着慣れた冷たい鎧ではなく、驚くほど肌触りのいい薄手の寝巻きだった。


(私は、捨てられたはずだ。あの勇者に……ゴミのように……)


記憶が蘇り、心臓を針で刺されたような痛みが走る。


戦うことしか教えられず、守るために全てを捧げてきた。その果てが、雨の降る街道への不法投棄。絶望が再び彼女を飲み込もうとした、その時。


コンコン、と。規則正しい、控えめなノックの音が部屋に響いた。


「おはようございます、お客様。意識が戻られたようですね。バイタルチェック……失礼、顔色は悪くないようです」


部屋に入ってきたのは、一人の少女だった。


体格は驚くほど小さく、下手な子供よりも華奢に見える。だが、その背筋は定規でも入っているかのように真っ直ぐで、纏っているエプロンドレスには、シワ一つ見当たらない。


何より印象的なのは、その瞳だ。感情を極限まで削ぎ落とした、冷徹なまでの静謐。けれど、不思議と拒絶を感じさせない、深い夜の海のような瞳。


「君、は……。ここは、どこだ……?」


「宿屋『木漏れ日こもれび』。私は主人のシエルと申します。昨夜、宿の前に『不法投棄』されていたあなたを、当宿の備品……としてではなく、お客様として収容いたしました」


シエルと名乗る少女は、無表情のまま、トレイに乗せられたスープをベッドサイドのテーブルに置いた。


立ち上る湯気と共に、食欲を暴力的に刺激する豊かな香りが広がる。


「……私は、死んだのではなかったのか。殺してくれと、言ったはずだ」


「あいにくですが、お客様。私は前世……いえ、先代から『仕事は完璧にこなせ』と教育されておりまして。あのような状態で放置するのは、宿の景観を損ねる不手際となります。当宿の評判を守るためにも、勝手に死なれるのは困ります」


シエルは事務的な口調で言い捨てると、スプーンをアルテミスの手に握らせた。


その指先が触れた瞬間、アルテミスの全身に、電撃のような「温かさ」が走った。


昨夜の浴室で、自分の心を粉々に砕いたはずの「絶望」を、いとも簡単に溶かしてしまったあの指先だ。


「……食べなさい。栄養失調と魔力枯渇が深刻です。これ以上の業務停止……健康被害は、宿屋の主人である私の怠慢になります」


「……、……っ」


アルテミスは、震える手でスープを口に運んだ。


舌の上で踊る、深いコクと野菜の甘み。体に染み渡る、慈愛に満ちた温度。


勇者のパーティにいた頃、食事はいつも「効率」と「補給」のための作業だった。生ゴミのような野営飯を、空腹を満たすためだけに胃に流し込む日々。


それに比べて、このスープはどうだ。


一口ごとに、何かが……心の中の、乾ききっていた場所が、潤っていくのがわかる。


「……なぜだ。なぜ、こんな……ゴミのような私に、これほどのものを……。私は、勇者にすら、いらないと言われた無能なのだぞ」


「……お客様」


シエルが、一歩、ベッドに歩み寄った。アルテミスよりもずっと小さいはずの彼女が、今はひどく大きく見える。


「勇者というのは? ああ、あの不法投棄の主のことですか。……正直に申し上げまして、私はあのような『現場の疲弊を顧みない経営者』は大嫌いです。道具が壊れるまで使い潰し、機能しなくなればメンテナンスもせずに捨てる。三流以下のクズですね」


シエルの声には、怒りすら混じっていなかった。ただ、事実を冷徹に指摘するだけの、極めてロジカルな断罪。


「いいですか、お客様。あなたのこれまでの評価など、当宿の宿泊名簿には関係ありません。あなたがどれだけ無能だろうが、世界から見捨てられようが、今のあなたは代金を支払う……いえ、支払っていただく予定の『お客様』です。そして、私はあなたを最高のおもてなしで癒やす、プロの宿屋。それ以上でも、以下でもありません」


ただの客。その言葉は、アルテミスにとって、どんな神の救済よりも甘美に響いた。聖騎士として、盾として、役割を演じなくてもいい。


期待に応えられなくて、殴られることもない。


ただ、そこに居て、食事を与えられることが許される場所。


「……一緒に戦った、あの子は……。魔術師の少女は、どうなったか、知らないか?」


アルテミスが、すがるように問う。


シエルは一瞬、窓の外に目を向けたが、すぐに視線を戻した。


「いいえ。こちらにはお一人で倒れておられました。他のお客様については把握しておりませんし、宿の外の事情に深入りするのは主人の本分ではありません。……今はただ、目の前のタスク……つまり、完食と安静に集中してください」


アルテミスは、溢れ出す涙を止めることができなかった。


シエルの言葉は冷たく、ビジネスライクだ。けれど、その不感症なまでのドライさが、今の彼女には何よりも心地よかった。


自分の価値を証明しなくていいという、究極の免罪符。


「……シエル、と言ったな」


「はい。シエルです。お客様」


「……おかわりを、貰えるか」


シエルの口元が、ほんの、一ミリだけ。


前世の有能なマネージャーが、ようやく素直になった部下に見せたような、微かな満足感で揺れた。


「ええ、もちろんです。……ただし、これからは『通常サービス外』の対応が続くようであれば、追加料金……いえ、オプション料金を検討させていただきますので、ご承知おきを」


宿屋の朝は、まだ始まったばかり。


前世で誰かのために身を削り、一度死んだ女性。


今世でもまた、無自覚に「誰か」を泥沼から引きずり込み、二度と離れられなくする「最高のおもてなし」を、淡々とこなしていく。


外の雨は、いつの間にか上がっていた。


そして、遠く街道の向こう側から、もう一人の「迷い子」の足音が近づいていることに、宿屋の女主人はまだ気づいていない。

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