Ep.10 優しさに心ほどかれつきはなす ―― *Ayame
学校に着いた時にはもう三時間目は始まってしまっていたけれど、まだ始まったばかりだったようで、
教室の後ろのドアからそっと
わたしが小さく手を振ると、太狼は少し照れたように前に向き直った。
太狼の発表というのは、授業で書いたという作文の発表だった。テーマは“たいせつなもの”についてだった。発表によれば、太狼は家族のみんなが大好きで、これからもずっと仲良くいたい、元気でいてほしいと思っているようだった。
わたしはそれを聞いて、わたしがそれを守っていかなくてはいけないんだと思ってしまった。感動的な話ではあった。わたし自身、聞いていて嬉しかった。だけれどそれ以上に、わたしは彼の幸せを守ってあげなくちゃいけない、異物であるわたしが家族の和を乱すような真似をしてはいけないと思ってしまった。
「……ねーちゃん、少し出てたら?」
玲応に小声でそう促されて、わたしは一度廊下に出ることにした。知らずのうちに、また涙を流していたらしい。周りにはきっと感動の涙だと思われただろうから、そんなにおかしくも思われなかっただろう。
とりあえず、ハンカチで涙を拭い、深呼吸する。窓から差し込む陽光が、やけに眩しい。わたしも数年前まで通っていたはずなのに、まるで別物のように見える。こんな景色だっただろうか、ここは。大人になったからだ、と人は言うかもしれない。わたしは本当に大人になれているだろうか。大人になることがこんなにもつらいことなら、わたしは一生大人になれなくていいのにと思った。
わたしはそれから、廊下に貼り出された掲示物を眺めていた。太狼が描いた絵は、家族みんながにこにこ笑っている絵だった。何となくそれを見ていられなくて、わたしはぼうっと窓の外を眺めながら廊下を歩いていた。
途中で三時間目の終わりを告げるチャイムが聞こえたけれど、足は止まらなかった。きっと今頃、どうして玲応が来たのかと太狼に問い詰められていることだろう。そんな様子を想像したら微笑ましくなって、少しだけ気分が晴れた気がした。
知っている先生と会うのは気まずくて教室のある階を避けていたら、いつの間にか昇降口前まで来てしまった。すると、わたしが降りてきた階段とは別の階段を使って降りてきた玲応と鉢合わせて、彼は不機嫌そうにぺたぺたとスリッパを鳴らしてこちらに向かってくる。
「どこ行ってたんだよ、ねーちゃん」
「少し出てたらって言われたから」
「そうだよ、少しって言っただろ。全然少しじゃねーよ。どこまで行ってんだよ」
そんなことに文句を付けられるとは思っていなくて、わたしは可笑しくて笑いを堪えられなかった。そんなわたしの様子に呆れたのか何なのか、玲応はため息を一つ吐いて、それきり文句を言ってはこなかった。
「タロち、何か言ってた? びっくりしてなかった?」
「そりゃあびっくりはしてたよ。何しに来たんだって言われた」
言葉の上ではそう言っていても、たぶん嬉しかったのではないかと思う。お母さんが来なかったのは残念だったかもしれないけれど、絶対に来ないだろうと思っていた玲応が来たことは、少しばかりこの兄弟の関係の改善に繋がったのではないだろうか。
「照れてるんだよ。可愛いじゃん」
「別に可愛くねぇよ。次も見てくの?」
「レオはもういいの? 久しぶりの母校だけど」
と言っても、彼はそういった感慨に耽る気質でもない。それよりは、意識は既に昼食の方に向いているだろうと思っていた。
「オレはいい」
「そう。じゃあお昼食べに行こうか。どこ行きたいの?」
待ってましたと言わんばかりに、玲応は口元を緩める。育ち盛りの男の子だし、どんなところに連れていかれるかと思ったら、彼が望んだのは意外にもファミレスだった。
彼の案内で、小学校から少し離れたファミレスに入る。ファミレスはファミレスでも、サラダバーがあるところが良かったらしい。
「本当に良いの? ここで」
「いいんだよ」
玲応が注文したのはドリンクバーとサラダバー、ハンバーグとチキンステーキの乗ったデラックスプレート。遠慮するつもりはないようだ。わたしもドリンクバーとサラダバー、おろしハンバーグを注文し、料理が運ばれてくるのを待つ間にドリンクとサラダを取りに行く。
玲応と二人で外食なんて初めてのことで、さらに言えばわたし自身は好んで外食もしないから、かなり新鮮だった。
「ねーちゃん、もう
「言い返して解決するならそうしてるよ……」
というより、お母さんとああいう会話になった時、何が何でもお母さんはわたしを悪くしようとする。わたしを悪者にするためならどれだけ捻じれた論理でも構わないというように、一方的に決めつけてくる。そんな相手に、話し合いでわかり合おうとする方が無謀というものだ。
「まあ、あの人相手じゃそうか……。何であの人はああなんだ……」
「レオは優しいね。心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから」
「何も大丈夫じゃねぇよ。大丈夫だったら部屋で一人で泣いてないだろ」
何だか似たようなフレーズを最近どこかで聞いたような気がする。いやいやそれより、あの日のことは触れてほしくないのだと言わなくてもわかるだろうに。
「あれは……忘れてよ。そういうんじゃなかったんだってば。涙が勝手に出てきただけだから。そういうこと、あるでしょ?」
「ねぇよ。本当はあんまりおすすめしたくないけど、さっさと彼氏作って、心の支えみたいなもんになってもらった方がいいんじゃねぇの? ねーちゃんのことだから、そういうのができたらめっちゃ依存しそうなのが心配だけど」
そうか、それで最近やたらと彼氏の話題を出すのか。わたしにそれを意識させようと。玲応のくせに、小賢しい小細工をするじゃあないか。
「確かに、それはそうかもね。だけど彼氏は本当にいらないの。それはそれで、わたしにとっては余計なストレスになるからさ。もうあっちもこっちもで、お腹いっぱいなんだよ」
弟だからか、話し過ぎてしまった。いくら玲応が相手でも、弱音を吐かないようにといつも気を付けてきたのに。そんなことをしたら心配してくれてしまうから、わたしはいつでも平気そうに振る舞おうと決めていたのに。まさか彼がこんなに真剣にわたしに向き合ってくれるなんて、思ってもみなかったから。
「……いじめられてんの?」
「いじめられてないよ。それに、もしそうだとしても、レオが気にすることじゃないから」
「……そうかよ」
そんな優しい彼を突き放してしまうのは心苦しい。本当は、“助けて”と言えたらどんなにいいか。わたしが“助けて”と縋りついていい相手はいない。わたしは大人でいなくてはいけないから、自分の足でちゃんと立っていなくてはいけないのだ。
「ねーちゃんさ、オレも半分出すからデザートも食べねぇ?」
何を思ったか、玲応は唐突にそんなことを言い出した。お互いに皿を平らげて、話をしながらドリンクを飲んでいる、少し手持無沙汰な状態ではあった。デザートを提案してくれたのは、気を遣ってのことなのかもしれない。そしてわたしの財布まで気にして。
「嫌だ。今日はわたしが出すって言ったでしょ」
「オレもねーちゃんに相談したいことあるから、お相子ってことで割り勘にしようぜ?」
そう言われると、返しに困る。ここで割り勘を拒否すれば、彼の相談事を拒否したようなものだ。彼がそれでいいと言うなら、それを受け入れるしかないのだろう。
「……わかった。じゃあそれでいいよ」
「ねーちゃんってほんっと押しに弱いよな。悪く言えばチョロい」
その自覚はある。というより、理屈で言いくるめられると言い返せなくて、結局許してしまう。
「良く言えば何なの?」
「考えたことなかった」
そうやって無邪気ににかっと笑う顔を見ると、別にどうでもいいかという気になってしまう。どうやらこれは、わたしの短所らしかった。
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