Ep.9 血まみれの見えない傷をひた隠す ―― *Ayame

「アヤメちゃん、明日ママ来てくれるかな」


 太狼たろうは寝る前に、そんなことを聞いてきた。明日は土曜日だが、小学校の授業がある。参観日なのだ。だからか少しそわそわしているようだった。


「明日はお母さんも仕事休みだから、来てくれるんじゃない?」


 こういう時くらい行ってあげてほしい。普段は仕事で家にいない分、子どものために動ける時は動いてあげてほしい。わたしのためには動かなくてもいいから、せめて玲応と太狼のためには動いてあげてほしい。


「明日ね、国語で発表あるんだよ」


「そうなんだ。何時間目?」


「三時間目」


 三時間目っていうと、十時半くらいか。そのくらいの時間なら、いくらお母さんが起きるのが遅くても、もう起きてはいる時間か。


「わかった、お母さんにも言っておくね」


「うん、おやすみ」


「はい、おやすみ」


 太狼は一人先に部屋に寝に入り、わたしはリビングに戻ってきた。すると、ソファに寝転がる玲応れおがスマホから視線も上げずに言う。


「明日行かなさそうだけど、いいの? あんなこと言っちゃって」


「もし行かないんだったら、わたしが行くよ」


 はぁ、と大きなため息を吐く玲応。わたしのやっていることは自己満足で、お節介に過ぎないことはわかっている。だけれどそれじゃあ、太狼があまりに可哀そうだ。


「別にそんなことしなくていいのに。ねーちゃん何でお母さん代わりしてんの?」


「お母さんがちゃんとお母さんやってたら、わたしもこんなことしないよ。レオも明日暇だよね?」


「暇するのに忙しい」


 つまり暇ということか。もしわたしにこういうことをさせたくないと思うなら、玲応が代わりにやればいいのにと思うが、絶対自主的にはやらないだろう。

 それに、本当は玲応からお母さんに言えば、きっとお母さんは動くだろう。わたしが言っても聞かない。でも、玲応はお母さんと諍いになると面倒だからと絶対そんなことはしてくれない。だから結局、わたしが代わりを務めるのが一番平和的な解決なのだ。


「もしお母さんが行かなかったら、今回はレオも一緒に来てよ。お昼何か奢ってあげるから。それならいいでしょう?」


 玲応も実際に行ってくれたら、考え方が少し変わるかもしれない。そんな淡い期待を持っての提案だった。


「何でもいいの?」


 思った通り、食い付いた。外食なんて、自分のお小遣いで行かない限り滅多にはできない。お小遣いだって多いわけじゃないから、外食に使うくらいなら他のことに使うだろう。だから、この条件は玲応にとっても魅力的なはずだと思ったのだ。


「何でも、とは言わないよ。わたしのお小遣いで足りるところにして?」


「いくらあんの?」


「予算は……二人で三千円くらいなら」


 それを聞いて、玲応は少し考えた末に了承してくれた。



 ◇◆



 翌日、結局お母さんは行かないと言った。

 昨日帰ってきた時に話をしたが、明日になったら考えると言われ、今朝になって改めて聞いても疲れたから今日は休みたいと言われた。この人は親の自覚があるのだろうか。子どもの晴れ舞台を観に行きたいとは思わないのだろうか。ならどうして――子どもなんか産んだのだろう。


 ――いや、それはわかり切っている。だから嫌なんだ。言われなくてもそんなことが痛いほどわかってしまうから、嫌なんだ。

 それでも、せめて太狼にはちゃんと親でいてあげてほしかった。彼だけは、ちゃんと二人の子どもなんだから。


「レオ、行くよ」


 玲応は朝食を食べ終えてからずっと、ダイニングテーブルに向かってスマホを弄っていた。彼にとっても今日お母さんが行くか行かないかは重要な話。話に加わらないまでも、その結果を見届けるつもりだったらしい。

 そんな彼の肩をぽんぽんと叩いて合図すると、お母さんが呼び止めた。


「ちょっと、レオ連れてどこ行くつもり?」


「タロちのところだよ。お母さんが行かないならわたしたちが行くの」


 するとお母さんは語気を強めて言い返してくる。


「あんたは勝手にすればいいけど、レオまで連れてく必要ないでしょ」


「そんなことはないと思うけど。だって参観日は別に、お母さんだけが行く日じゃないし。お父さんが行ったっていいんじゃない?」


「はあ? 何言ってんの? お父さんは今日も仕事でしょ」


 わたしが皮肉を言ったのが通じていないらしい。わたしと玲応が、お母さんとお父さんの代わりに行くと言っているのに。


「ああ、うん……そうだね。じゃあ行こうか、レオ」


 しかしお母さんはそれを許さない。レオが席を立つと、大きな声を出してそれを制した。


「待ちなさい! あんた何? レオ連れてって何がしたいの? 私がいない間にそうやって弟に色目使ってんの? やらしい女だねぇ、あんた」


「そんなことしてないよ。そう思うなら、お母さんがレオと行ってあげればいいじゃん」


 ああ、胃が痛くなってきた。しんどい。このまま蹲って、泣き出してしまいそう。そうできたらどんなにいいか。どうしてこうなってしまうんだろう。


「オレが行きたいって言ったんだよ、ねーちゃんに」


「余計なことしないで!」


 我関せずというように静観していた玲応が割って入ろうとするので、わたしも思わず大きな声を出してしまった。それに驚いたように、怯んだように、玲応はまた椅子に座り直した。困惑したように不満そうな顔をこちらに向けてくるが、彼は何も言わなかった。


「レオを連れて行きたかったのは、レオがタロちのこといじめてばっかだから、真面目に授業受けてる姿を見せたら変わるかなって思ったの」


 母親なのにそんなこと、知りもしないくせに。知ろうともしないくせに。

 言葉にはしなかったけれど、表情には出てしまっていたのかもしれない。お母さんは近くにあった本を乱雑に投げる。避けたら余計に怒られるから、わたしはそれを大人しく受けた。


「ああそう、そうやって私を悪いことにするんだ。お父さんに泣きついて助けてもらおうってわけ? お父さんならあんたの味方してくれるもんねぇ!」


「そうじゃないよ。そんなつもりじゃない。わたしはただ、タロちが今日楽しみにしてたのを知ってたから、可哀想な思いをさせたくないだけなの」


 投げられた本を拾ってテーブルの上に置く。幸い、当たったのは肩の辺りだったから、それほど痛くはなかった。


「……もういいでしょ、行くね」


 わたしは強引に話を切り上げて、玲応を連れて家を出ていった。お母さんが追いかけてくる気配はしなかったから、とりあえず見逃してくれたらしい。


 マンションの駐輪場まで玲応の手を引いてやってくると、わたしは彼に謝罪した。彼の気持ちを無下にしたことを謝りたかった。そしてわたしがそれを拒んだ理由も、ちゃんとわかってほしかった。


「ごめんね、さっきは怒って。ありがとう。でもダメなんだ。あんなこと言ったら、わたし余計に嫌われちゃうから。だからもう、わたしのことは庇わないで」


 玲応がわたしに味方すれば、玲応をわたしに取られると思うのだろう。そう思うのも仕方がないとは思う。いくらお父さんを愛していても、わたしは所詮、お父さんが過去に愛した女の股から産まれた女だから。それが自分の息子と仲良くしていたら、わたしを息子を誑かす憎い女だと思っても仕方がない。だから別に、誰も悪いわけじゃない。悪いとすれば、わたしが産まれてしまったことだ。わたしがいなければ、この家族はもっと正常だったかもしれないのに。わたしはこの家族にとって、異物でしかないのだ。


「おかしいだろ。あんな風に言われて、何で怒らないんだよ。あれじゃ、ねーちゃんマジでいつか死んじまうぞ」


「そうかもしれないね。でも言い返したら、もっと酷くなる。あれでは済まないかもしれない。だからこれでいいの」


 玲応はまだ何か言いたそうにしていたが、わたしは時計をちらと見て、無理に笑顔を作ってみせた。


「もう行かないと、間に合わなくなっちゃう。お昼何食べたいか、考えておいてね」

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