第13話 散歩

早朝、まだ街が眠りから醒める前の青白い時間。僕は「境界線」が最も曖昧になるこのひとときが好きだった。

​「クゥーン、クゥーン」

​枕元で鼻を鳴らすのは、愛犬のアル。大きな体躯とカールした茶褐色の毛が特徴の、エアデール・テリアだ。テリアの王様なんて呼ばれることもあるけれど、こいつの性格は王様というよりは、陽気な近所のおじさんに近い。

​「……わかった、行くよ。静かに」

​僕が布団から出ると、部屋の隅で淡く光る影がふわりと浮いた。

​「おはようございます。アルくん、もう準備万端ですね」

​透き通った彼女が、アルの大きな頭をなでる仕草をする。

不思議なことに、現実の人間には触れられないはずの彼女の手を、アルは確かに感じ取っているようだった。アルは嬉しそうに尻尾を振り、誰もいない空間に向かって鼻先を押し付けている。

​「……よし、行くか」

​冬のキリリとした空気が頬を刺す。

湖の近くまで歩くと、朝靄が立ち込め、視界は幻想的な白に包まれた。

​「うわぁ……綺麗。佐藤くん、見てください。湖が鏡みたい」

​彼女はアルのリードを持つ僕の隣を、軽やかな足取りで歩く。

アルは時折、彼女の足元——影のないはずの場所——を気にするように振り返っては、「ちゃんと付いてきてる?」と確認するように短く吠えた。

​「アルは、君のことが本当に好きみたいだな。僕より懐いてるんじゃないか?」

「ふふ、アルくんは優しいですから。私がここに『いる』って、ちゃんと信じてくれているんです」

​彼女がアルの背中にそっと手をかざすと、アルは気持ちよさそうに目を細める。

大きなエアデール・テリアと、透き通った幽霊の少女。

朝靄の中を行くその姿は、まるで古い絵本の一場面のようだった。

​「……佐藤くん。私、生前は犬を飼うのが夢だったんです。でも、ずっと部屋から出られなかったから」

​彼女は湖面を見つめ、静かに言葉を紡いだ。

​「だから、こうしてアルくんと歩けるだけで、私の『悲しい』がどんどん溶けていく気がします。……今、とっても楽しいです」

​彼女の横顔は、あっちの世界で見せた生身の輝きとはまた違う、静かで穏やかな幸福に満ちていた。

​「……そうか。なら、明日もまた来るか」

「はい。約束ですよ」

​アルが「僕も賛成だ!」と言うように、湖に向かって力強く一声吠えた。

その声は朝靄を切り裂き、遠くの対岸まで響いていった。

​家に戻れば、またあの騒がしい家族と、料理を作る日常が始まる。

でも、この静かな散歩の時間だけは、僕と彼女とアルだけの、誰にも邪魔されない「聖域」だった。

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