第10話 コカ・コーラ
週末。朝の光がまだ眠たげな湖畔で、僕たちは並んで座っていた。
傍らにあるのは、数時間ピクリとも動かないウキと、結露した二本のコカ・コーラ。
「……確率は低いですね」
隣で大人びた口調で呟いたのは、屋上さんの弟だ。
僕より二回りほど小さな体だが、その視線は僕と同じくらい遠く、深い場所を見つめている。
「魚の活性が低いのか。それとも、僕たちの存在がこの風景に馴染んでいないのか。……どう思いますか?」
「さあな。ただ、僕の腕が未熟なだけかもしれない」
プシュッ、とコーラの缶を開ける。
喉を焼くような炭酸の刺激。甘くて冷たい液体が、思考の熱を冷ましてくれる。
名前を呼ぶほど親密ではないけれど、沈黙が苦にならない。僕はこの少年との、この距離感が嫌いじゃなかった。
「小学校はどうなんだ。賢い君には、少し退屈な場所なんじゃないか」
僕が向けると、彼はコーラの缶を両手で包むように持ち、少しだけ眉を寄せた。
「退屈、というよりは……不条理ですね。給食を残してはいけないというルールや、多数決ですべてが決まるシステム。感情がロジックを追い越していく場所です」
彼は一度言葉を切って、凪いだ湖面を見つめた。
「でも、姉は……あそこが世界のすべてだと思っている。だから、時々苦しそうに見えます。あんなに元気そうに振る舞っているのに」
図星だった。屋上さんが僕に見せる明るい笑顔の裏側にある、薄い氷のような危うさ。
この少年は、姉のそれを誰よりも冷静に、そして優しく見抜いている。
「……君は、どうなんだ」
「僕は、こうして釣れない釣りをしている方が性に合っています。結果が出ないことを受け入れる時間は、今の僕には必要ですから」
彼はそう言って、少しだけ口角を上げた。
小学三年生とは思えないその横顔に、僕はどこか、異世界で剣を振るう自分とは別の、もう一人の「静かな自分」を投影してしまう。
結局、その日、魚が僕たちのエサを突つくことは一度もなかった。
けれど、空になったコーラの缶を片付けるとき、僕の心は不思議と軽くなっていた。
「また、来てもいいですか。……ここなら、呼吸がしやすい」
「ああ。コーラの準備はしておくよ」
釣果はゼロ。
それでも、僕たちは何かを分かち合ったような心地で、静かに湖畔を後にした。
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