八月、僕は灯りの名前を知らない
いすず さら
八月某日の夏
第1章
八月某月、夕暮れの駅
八月某月。
日付を正確に思い出せないほど、ありふれた一日だった。
それなのに、
その日の夕方だけが、
記憶の中で、やけに重く沈んでいる。
駅のホームに立つと、
コンクリートが昼の熱をまだ抱えていた。
足の裏から、じわりと温度が伝わってくる。
蝉の声は、もうまばらだった。
数を減らした音だけが、
遠くで、義務みたいに鳴いている。
夏が、
終わりに向かっている音だった。
ベンチに腰を下ろし、
僕は、無意識のうちにスマートフォンを取り出した。
画面に映るのは、
何度も開いては閉じたトーク画面。
一番下に残っているのは、
灯からの最後のメッセージ。
――「また連絡するね」
その文の曖昧さが、
この夏のすべてみたいだった。
期待していいのか、
待つべきなのか、
それとも、
もう終わったと考えるべきなのか。
どれを選んでも、
決定的な証拠は、どこにもない。
灯の名前を、
心の中でそっとなぞる。
灯(あかり)。
明るすぎるくらいの名前なのに、
本人は、
眩しい場所が苦手だった。
「人が多いところ、ちょっと疲れる」
そう言って、
人混みから一歩引いた場所に立つ癖があった。
僕は、
その距離感が、
なぜか心地よかった。
電車が、
低い音を立ててホームに入ってくる。
風が起き、
紙くずが転がり、
誰かの髪が揺れる。
ドアが開き、
人が降り、
また閉まる。
いつも通りの光景。
それなのに、
胸の奥だけが、
置いていかれたみたいだった。
僕は立ち上がり、
ホームの端まで歩いた。
線路の向こう側に、
夕焼けが滲んでいる。
オレンジ色の光は、
昼と夜の境界みたいで、
どちらにも属していなかった。
この夏、
僕と灯は、
はっきりとした関係にならなかった。
恋人とも、
友達とも、
名前をつけられない距離。
でも、
その曖昧さを、
壊そうとは思わなかった。
壊してしまったら、
この時間そのものが、
消えてしまいそうだったから。
「何も起きなかった夏」
あとから振り返れば、
そう呼ぶのかもしれない。
けれど、
本当に何もなかったなら、
こんなふうに、
胸が苦しくなるはずがない。
八月某月。
夕暮れの駅。
理由もなく、
ただ立ち尽くしていたこの日が、
僕の中で、
静かに何かを始めていたことを、
そのときの僕は、
まだ知らなかった。
第2章
彼女が夏を嫌いだと言った理由
灯が夏を嫌いだと言ったのは、
六月の終わり、
まだ梅雨の気配が残る午後だった。
空は明るいのに、
どこか湿り気を含んでいて、
遠くで雷が鳴りそうな気配があった。
駅から少し離れた、
古いカフェ。
大通りから外れているせいか、
店内は静かで、
時間がゆっくり流れているように感じられた。
窓際の席に座り、
僕たちは向かい合っていた。
アイスコーヒーのグラスの中で、
氷が溶ける音が、
やけに大きく響く。
灯は、
ストローを指先でくるくる回しながら、
窓の外を見ていた。
「ねえ」
不意に、こちらを見ずに言う。
「夏って、好き?」
その問いは、
まるで天気の話みたいに軽かった。
「嫌いじゃない、かな」
少し考えてから、
そう答えた。
本当のところ、
好きか嫌いかなんて、
深く考えたことはなかった。
灯は、
小さく息を吐いた。
「そっか」
その声には、
わずかな落胆が混じっていた。
「私は、苦手」
「どうして?」
灯は、
少しだけ言葉を探すように、
視線を下げた。
「明るすぎるから」
冗談みたいな理由なのに、
その表情は真剣だった。
「夏ってさ、
みんな、楽しそうじゃない?」
その“みんな”に、
自分が含まれていないことを、
彼女は、はっきりと理解しているようだった。
「楽しまなきゃいけない、
みたいな空気がある」
ストローが、
グラスの縁に当たって、
小さな音を立てる。
「でも、
何も起きなかったらさ」
灯は、
一度、言葉を切った。
「それだけで、
ちゃんと生きてないみたいに思えてくる」
その言葉に、
胸の奥が、静かに揺れた。
僕も、
同じことを、
うまく言葉にできずに、
抱えていたから。
「春とか秋なら、
ぼんやりしてても許されるのに」
灯は、
困ったように笑う。
「夏だけは、
ちゃんと“思い出”を作らないと、
置いていかれる感じがする」
それは、
彼女の弱さの告白だった。
でも同時に、
とても誠実な言葉だと思った。
「だから、嫌い」
そう言ったあと、
灯は、ほんの少しだけ、
肩の力を抜いた。
まるで、
言ってはいけないことを、
やっと口に出せたみたいに。
「でも」
僕が言う前に、
灯が続けた。
「夜は、好き」
「夜?」
「うん」
灯は、
ようやくこちらを見て、
静かに笑った。
「全部が、見えなくなるでしょ」
「見えなくなる?」
「明るいとさ、
隠せないものまで、
全部見えちゃう」
彼女は、
自分の胸元に、
そっと手を当てた。
「夜なら、
少し嘘をついても、
許される気がする」
その言葉に、
僕は、何も返せなかった。
灯は、
嘘をつきたいわけじゃない。
ただ、
自分を守るために、
暗がりが必要な人なのだ。
カフェを出ると、
雨上がりの匂いがした。
夕暮れの街を、
並んで歩く。
影が、
伸びて、
重なって、
また離れる。
その距離感が、
僕たちそのものだった。
「ねえ」
灯が、足を止める。
「この夏さ」
少し迷うような沈黙。
「何も起きなくても、
覚えていられるかな」
その問いは、
未来の僕に向けられていた。
「……きっと」
そう答えた声は、
思ったよりも、頼りなかった。
灯は、
それでも頷いた。
「なら、いい」
そう言って、
また歩き出す。
あのとき、
彼女が本当に聞きたかったのは、
“覚えているか”じゃない。
“忘れないでいられるか”
だったのだと、
今なら分かる。
そして僕は、
その問いに、
最後まで答えられなかった。
第3章
花火の音だけが残った夜
花火大会の日が近づくにつれて、
街の空気が、少しずつ浮き足立っていった。
コンビニの前に並ぶ、
色とりどりの浴衣。
駅前に貼られた、
少し色褪せたポスター。
それら全部が、
「特別な夜が来る」と、
無言で告げているみたいだった。
灯から、
「夜、少しだけ会える?」
というメッセージが届いたのは、
当日の昼過ぎだった。
たったそれだけの文章なのに、
胸の奥が、
小さく跳ねた。
約束は、駅前。
時間は、曖昧。
それも、
彼女らしかった。
夕方、
人で溢れ始めた駅前に着くと、
いつもより、音が多かった。
笑い声、
足音、
どこかで鳴る音楽。
灯は、
人混みの向こうから、
静かに現れた。
白地に、
淡い青の浴衣。
派手じゃないのに、
視線が、自然と向いてしまう。
「待った?」
「今、来たところ」
本当は、
三十分前から、
同じ場所に立っていた。
「暑いね」
そう言いながら、
灯は、
少しだけ、距離を取って立つ。
人混みの中でも、
彼女は、
ちゃんと自分の居場所を保っていた。
河川敷までの道を、
並んで歩く。
会話は、
途切れがちだった。
でも、
沈黙が、
嫌じゃなかった。
それが、
少しだけ、怖かった。
花火が上がる。
一発目の音が、
空気を割った。
光が、
夜を一瞬だけ、
昼に変える。
周囲から、
歓声が上がる。
その中で、
灯は、
ただ黙って、
空を見ていた。
横顔が、
光に照らされて、
すぐに影に沈む。
その繰り返し。
「……きれい?」
隣で、
小さく聞く。
灯は、
少し考えてから、
頷いた。
「うん」
それから、
付け足すように言う。
「でも、
すぐ消えるね」
それは、
花火の話だったはずなのに、
胸の奥が、
妙にざわついた。
二発目、
三発目。
光が、
何度も、夜を裂く。
そのたびに、
僕は、
何かを言わなければいけない気がした。
でも、
言葉は、
どれも、この夜に似合わなかった。
「ねえ」
花火の音が、
一瞬、途切れたとき、
灯が言った。
「来年の夏って、
どうなってると思う?」
来年。
その言葉が、
急に現実味を失った。
「分からない」
正直な答えだった。
灯は、
小さく笑った。
「だよね」
それ以上、
何も言わなかった。
花火が終わる。
夜が、
急に、元の暗さを取り戻す。
耳の奥で、
音だけが、
残り続ける。
帰り道、
人波に押されながら、
駅へ向かう。
灯の肩が、
時々、僕の腕に触れる。
それだけで、
心臓が、
必要以上に騒いだ。
駅に着くと、
人は、少しずつ散っていった。
改札の前。
灯が、立ち止まる。
何かを言いたそうに、
何度か、視線が揺れる。
「今日は、ありがとう」
「うん」
それ以上の言葉が、
出てこなかった。
言ってしまえば、
この夜が、
別の形に変わってしまいそうだった。
「……じゃあね」
灯は、
それだけ言って、
改札を抜けた。
振り返らなかった。
その背中を見送りながら、
僕は、
確かに感じていた。
この夜は、
始まりじゃない。
終わりでもない。
ただ、
“境目”なのだと。
花火の光は、
もう空にはない。
残ったのは、
消えたあとにしか分からない、
音の余韻だけだった。
第4章
届かなかったメッセージ
花火大会の夜から、
灯からの連絡は、途絶えた。
急に、ではなかった。
少しずつ、
波が引いていくみたいに。
一日。
二日。
三日。
気づけば、
「待っている時間」そのものが、
日常になっていた。
僕は、
何度もスマートフォンを手に取った。
画面を開いて、
トーク画面を表示して、
そのまま、閉じる。
その繰り返し。
送ろうとした文章は、
どれも、途中で止まった。
――「あの夜、楽しかった?」
――「体調、崩してない?」
――「また、会えたらいいな」
どれも、
軽すぎるか、
重すぎるかの、どちらかだった。
ちょうどいい言葉は、
見つからない。
正確には、
見つけようとするのが、
怖かった。
言葉にした瞬間、
この関係が、
確定してしまう気がしたから。
「終わっている」と。
昼間は、
なるべく考えないようにした。
講義を受け、
適当に相槌を打ち、
ノートを取る。
友人の話に、
曖昧に笑う。
でも、
夜になると、
すべてが戻ってくる。
部屋の明かりを落とすと、
窓の外の街灯が、
薄く差し込んだ。
その光を見るたびに、
灯の名前が、
頭に浮かぶ。
彼女は、
自分の名前が好きじゃないと、
言っていた。
「期待されてる感じがするから」
そう言って、
苦笑いしていた。
灯は、
誰かを照らすことより、
照らされることを、
ずっと避けてきた人だった。
だから、
明るすぎる夏が、
苦手だったのだ。
僕は、
未送信の文章を、
また開いた。
――「あの夜、言えなかったけど」
そこから先が、
書けない。
言いたかったのは、
「好きだ」という言葉だったのか、
それとも、
「離れないでほしい」という願いだったのか。
自分でも、
よく分からなかった。
送らなければ、
終わらない。
そんな、
身勝手な理屈に、
しがみついていた。
八月某月。
日付は、
もう思い出せない。
ただ、
湿った空気と、
スマートフォンの白い光だけが、
やけに鮮明だった。
結局、
その夜も、
メッセージは送らなかった。
いや、
送れなかった。
スマートフォンを伏せ、
目を閉じる。
暗闇の中で、
灯の声が、
はっきりと蘇る。
「夜なら、
何かを隠してても、許されるでしょ」
彼女は、
隠していたのではなく、
守っていたのだ。
自分の気持ちを。
そして、
僕との距離を。
そのことに、
気づいたときには、
もう、
夏は終わりかけていた。
第5章
九月、名前のない別れ
九月になった。
暦が一枚めくられただけなのに、
空気の重さが、はっきりと変わった。
朝、駅まで歩く道で、
ふと、風が涼しいことに気づく。
それだけで、
胸の奥が、
少しだけ、置いていかれた気がした。
灯からの連絡は、
結局、来なかった。
「忙しいだけかもしれない」
「そのうち、また」
そんな言い訳は、
もう、通用しない。
時間が、
はっきりと、
答えを出してしまった。
でも、
僕は、
それを“別れ”と呼べなかった。
付き合っていたわけじゃない。
約束も、
未来の話も、
何ひとつ、していない。
なのに、
確かに、何かは終わっている。
その中途半端さが、
いちばん、
心を疲れさせた。
大学のキャンパスは、
夏休みの終わりで、
人が少ない。
ベンチに座り、
ぼんやりと空を見上げる。
雲が、
低い位置を、
ゆっくり流れていく。
あの夏も、
きっと、
こんなふうに過ぎていったのだ。
スマートフォンを開く。
トーク画面は、
相変わらず、静かだ。
でも、
プロフィール欄だけが、
少し変わっていた。
灯の名前。
表示の仕方が、
微妙に違う。
プロフィール画像は、
真っ白。
それだけで、
彼女が、
何かを整理しようとしていることが、
伝わってきた。
ブロックされたわけじゃない。
消されたわけでもない。
ただ、
距離が、
はっきりと見えるようになっただけ。
それが、
いちばん、残酷だった。
夕方、
キャンパスを出て、
駅へ向かう。
九月の夕暮れは、
八月よりも、
ずっと早い。
ホームに立つと、
斜めの光が、
短く伸びていた。
あの日と、
同じ場所。
同じベンチ。
でも、
同じ時間ではない。
僕は、
理由もなく、
そこに座った。
もし、
灯が現れたら。
もし、
何事もなかったみたいに、
声をかけてくれたら。
そんな、
現実にならない想像を、
まだ、捨てきれていなかった。
電車が来て、
人が降りて、
また去っていく。
何度繰り返しても、
灯はいない。
それで、
すべてだった。
夜、
部屋に戻る。
窓の外に、
白い月が浮かんでいる。
八月の月より、
少しだけ、
冷たい光。
僕は、
スマートフォンを手に取った。
初めて、
はっきりした文章を書く。
――「元気でいますか」
それだけ。
期待を込めない、
確認の言葉。
送信ボタンを、
押した。
既読は、
すぐについた。
それなのに、
返事は、来ない。
数分。
数時間。
次の日。
それでも、
何も届かなかった。
その沈黙が、
答えだった。
言葉がなくても、
人は、
ちゃんと、別れられる。
名前のない別れは、
静かで、
後を引く。
九月の夜、
部屋の明かりを消す。
暗闇の中で、
灯の名前だけが、
微かに、残っていた。
最終章
それでも灯りは消えなかった
秋が、深まっていった。
九月の終わり、
十月のはじまり。
朝の空気は、
もう、はっきりと冷たい。
それでも、
ふとした拍子に、
八月の湿度が、
胸の奥に蘇ることがあった。
忘れたわけじゃない。
忘れられなかったわけでもない。
思い出は、
時間の底に沈んで、
ときどき、光を反射する。
それだけのことだ。
ある日の夕方、
僕は、久しぶりに、
あの駅に降りた。
理由はない。
正確には、
理由を必要としなくなった。
ホームに立つ。
夕暮れの色は、
もう、夏のものじゃない。
淡い灰色と、
遠くの青。
世界は、
静かに、季節を更新していた。
歩道橋に上る。
下を流れる車のライトが、
細く、長く連なっている。
あの夏、
僕は、灯りを追いかけていた。
彼女の名前と同じ、
消えそうで、
でも、確かにそこにある光。
でも今は、
それを、
無理に掴もうとは思わない。
灯りは、
手に入れるものじゃない。
ただ、
そこに在ると、
認めるものなのだと、
ようやく分かった。
ポケットの中で、
スマートフォンが震えた。
反射的に、取り出す。
画面に表示された名前に、
一瞬、息が止まる。
灯。
通知を開く。
――「元気です」
それだけの、
短い文章。
余計な言葉は、
何ひとつ、なかった。
それなのに、
胸の奥が、
少しだけ、温かくなる。
僕は、
すぐには返さなかった。
以前なら、
言葉を探して、
何度も、書いては消していた。
でも、今は違う。
夕暮れを見ながら、
ゆっくりと打つ。
――「よかった」
それだけ。
送信する。
既読がつく。
それ以上、
会話は続かなかった。
でも、
それでよかった。
僕たちは、
同じ場所には戻らない。
あの夏も、
もう、戻らない。
それでも、
すべてが、
消えたわけじゃない。
八月某月、
確かに、
同じ光を見た。
それは、
もう眩しくはないけれど、
完全に暗くなることもない。
歩道橋を降りる。
信号が、
青に変わる。
僕は、
前を向いて歩き出す。
灯りは、
もう、追いかけなくていい。
だって、
目を閉じても、
ちゃんと、そこに残っているから。
八月、僕は灯りの名前を知らない いすず さら @aeonx
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