第8話
エース選抜対決から数日が経って、職員寮への引越しが完了した。理事長が手配してくれた引越し業者が親身になって手伝ってくれたので、重い荷物を持つこともなく、オレの負担はほとんどなかった。また折を見て、改めてお礼をしなければいけないな。
予定より早く引越しが済んだので、まだ誰も来ていないだろうがグラウンドへ顔を出すことにした。オレにできる雑用はそう多くはないが、少しでも選手たちが気持ちよく練習できるように、できることはやっておこうと思った。
そう思っていたが、グラウンド脇のベンチには既に一人の少女の姿があった。練習着に着替え、バットを手にしているものの、何をするでもなくただ呆然とベンチに腰掛けている。
「早いな、結衣。どうしたんだ?」
「そっちこそ、早いじゃん」
オレも彼女の近くに腰掛けて、せっかくの機会だからと話をすることにした。ちょうど誰もいないタイミングで、彼女のサボりの件について話しておきたかった。
「予定が早く済んだからさ。結衣は、練習嫌いなのか?」
「別に嫌ってわけじゃないけど。でもね……」
話してくれる気はあるようだ。オレは彼女から視線を外さず、続きを催促する。
「練習してて、意味あるのかなって思う時があるのよ」
その言葉の意図は、どうとでも読み取れる。ただ少なくとも、今ままでの環境で行われる練習が、彼女にとって意味があるものに感じられなかったとしても無理はないと思った。
「それは……練習の成果を発揮する機会がないから?」
結衣は無言で頷く。試合もできない環境で、練習だけを毎日続けるというのはよほど野球に熱意がないとできないだろう。逆に、よくこの部に残り続けてくれたと思う。
「だったら、その心配はいらないよ。今年は試合に出れる。出してやるよ」
オレの言葉に、結衣はちらと視線をこちらに向ける。その眼は少しだけ輝きを取り戻したが、すぐに落胆したように俯く。
「……本当に? でも、まだ人数足りないでしょ?」
「それはそうなんだけど……。でも、オレも試合ができないままだとクビになっちゃうからさ。何としてでも大会に出る。そして、全国に行きたいと思ってる。ああ、これはまだ皆には内緒な?」
まだ全国行きを目標にしていることは、絢郁くらいにしか言っていない。それを現実的な目標だと捉えられるのは、絢郁の他には緩奈ちゃんくらいだろうと思ったからだ。案の定、結衣も現実感がないのか、思わず笑いがこみあげてしまうようだった。
「全国……ふふっ、バカみたい。こんな状況で、行けるわけないよ」
「そんなことはないよ。皆実力はある。こんないい選手たちをこのまま埋もれさせるわけにはいかない。だから約束するよ。まずは必ず、県大会に出る」
「ああ、一年生たちのこと? 四人ともシニア出身だって。すごいよね。何でこの学校に来たんだか……」
それは正直オレも知りたい。もしかして、彼女らの実力を目の当たりにして、自信をなくした部分もあったのだろうか。上級生組で言えば、結衣は間違いなく能力上位。一年生がいなければ、チームの主力になったはずだ。それが本物に出会って、折れてしまった……のだろうか。
「言っておくけど、結衣もいい選手に含まれてるからな?」
意外だったのか、反応に間があった。だけどやはり、また彼女は自嘲気味に視線を下げてしまう。
「……あたしのどこが?」
「センスはかなりあると思うよ。少なくともオレは、この前のスイングを見てそう感じた。体格にも恵まれてるし、他のスポーツでも大成できそうな気はするけど」
まだ粗削りではあるから、現段階では実力差が気になるのもわかる。それと積み上げてきた練習の質も違うだろう。逆に言えば、その状態でここまでのセンスを見せていることが、彼女に期待できる要素なのだが。
「ふーん、そう」
意外にも満更でもなさそうだ。素っ気ない言葉とは裏腹に、口元が少し緩んでいる。褒められて悪い気はしないらしい。
「この間は何で打てなかったか、自分で気付いてる?」
「練習不足って言いたいのかしら?」
もちろん、それだけではないだろう。だけど、大部分を占めるのが練習であることに違いはない。
「そうだよ。でも、安心したよ」
「何で?」
「素振りしてたんだろ? 悔しかったんじゃないか?」
その手に持ったままのバットと、少し汚れたバッティンググローブがそれを物語っている。結衣はまた視線を下げたが、今度は少し照れているようにも見えた。
「……まあ、そうね」
「その気持ちは大事だよ。打てなくて悔しい思いをした分、打てた時に込み上がってくるものは大きくなる。その瞬間は、やみつきになるよ」
なぜか呆れたようにため息を吐かれる。何か変なこと言っただろうか。
「わかったわよ。毎日ちゃんと練習に来るわ。これでいいのかしら?」
「まあ、とりあえずは、な」
今の結衣にとっては、毎回ちゃんと練習に来てくれるだけでも大きな前進だ。そしてそれが、彼女の実力を伸ばすために、今最も必要なことだ。
すると不意に、結衣がわざわざオレのすぐ隣に座り直す。わざと距離を取っていたのに、簡単にその距離を詰められる。練習着に着替えているといっても、どこか甘ったるいような、女の子らしい香りが鼻をつく。
「ねぇ、いくつなの?」
その嫣然とした上目遣いは、スポーツマンではなく、一人の女の子としての好奇心からなのだろう。
「えっと……22」
「へぇ、6つ上かぁ」
相手は生徒。手を出してはいけない存在だ。だけど、この距離ではまったく意識するなという方が難しい。そしてそれは、恐らく結衣もわかってやっている。
「監督から見てさ、野球部で誰が一番可愛い?」
「絢郁に決まってるだろ」
「なんだー、つまんない」
オレがシスコンで助かったと心底思った。答えを間違えると危険な問いだっただけに、即答できた自分を褒めてやりたい。
「……ねぇ、あたしは? 可愛くない?」
そう言って、結衣はオレの肩に寄りかかってくる。だが、バランスを崩して二人ともベンチの上に倒れてしまう。彼女にそのつもりがあったのかなかったのかはわからないが、オレは彼女を支えられず、そのままベンチの上に押し倒されてしまった。
「もう、だらしないなぁ」
「おい、バカ、降りろ」
ちょうど結衣がオレに覆いかぶさるような体勢。逆じゃないだけ良いだろう。それでも、この距離感は誰かに見られると危うい。
「こんなとこ見られたら、どうなっちゃうだろうね」
そんなことわかりきっている。間違いなくクビだ。いや、それだけで済めばいいが……。今の結衣は、オレの人生の手綱を握っている状態。生かすも殺すも彼女次第。不用意に近づきすぎたか。まさかこんなことになるとは思わなかった。
「降りろって」
どかそうとして彼女の肩を押し返そうとするが、オレの力では彼女に敵わない。彼女も女の子とは言え、アスリートの端くれだ。それなりに力は強い。当然筋肉はついているんだろうけど、触れてみると思ったより柔らかいな……。いやいや、そんなことを考えている場合じゃない。
「もう、せっかく美少女と密着してるんだから、少しはありがたく思ったらどうなのよ」
「自分で言うかよ……」
マズいな、そろそろ皆が来る頃だ。結衣は言うことを聞いてくれそうにないし、抵抗しようにもオレの力ではどうにもならない。誰かに助けを求めるにしても、この状況は見つかるだけで誤解を生む。助けを求める方がかえって状況が悪くなる。これはもしかして、完全に詰んだのか……? なんて思っていると、事態は最悪の方向へと進む。
最初にグラウンドにやってきたのが、よりにもよって高瀬さんだった。たぶん、部の中で一番話が通じない、考え得る中で最悪の人物だろう。
「最っ低……!」
案の定、高瀬さんはオレに言い訳させる暇を与えず、踵を返して去ってしまった。きっと、先生を呼びに行ったんだろう。せっかくこれからだと思ったのに、こんなことで全て終わってしまうなんて。
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