孤独な深夜の配信メシ

五平

第1話:真夜中の豚汁

 網膜に焼き付いた残像が、瞼を閉じても消えない。

 青白いモニターの光、激しく流れるコメントの濁流、そして耳の奥で鳴り止まない銃声の余韻。


「――はい。というわけで、今日の配信はここまで。最後、あのAIM(エイム)はマジで神がかってたな。……うん、お疲れ。みんなも早く寝ろよ。乙。乙乙。おやすみ」


 マウスをクリックし、配信を終了する。

 一瞬前まで数千人の「視線」に晒されていた自室は、接続が切れた途端、ただの三畳半の箱へと成り下がった。

 ヘッドセットを外すと、側頭部に不快な圧迫感が残っている。汗ばんだ髪をかき上げ、深く椅子に背を預けた。

 空調の微かな唸りだけが、静まり返った部屋の主役になる。


 時刻は午前二時十四分。

 この時間、世界はひどく静かだ。


 ふいに、胃の奥がキュウと鳴った。

 配信中のアドレナリンが引いていくのと入れ替わりに、暴力的なまでの空腹が押し寄せてくる。

 集中している間は忘れていた。今日の昼、対戦スケジュールをこなすために、コンビニのおにぎりを一個口に放り込んだきりだったことを。

 一度空腹を意識すると、もう思考は食べ物のこと以外を拒絶し始める。

 

 僕は椅子から立ち上がり、部屋のドアを開けた。

 廊下は暗い。

 自室から漏れるPCのLEDの光が、廊下の奥へ向かって細長く伸びている。

 階段を一段降りるたび、古い木材が「ギィ」と低く鳴った。

 一階は、深い海の底のように静まり返っている。

 リビングのソファは主を失い、月明かりを浴びてぼんやりと鎮座していた。


 台所へ向かうと、そこだけが別の時間軸のように明るかった。

 家族が寝静まった後の、静まり返った家。

 テーブルの上には読みかけの新聞が、まるで誰かが今さっきまでページを捲っていたかのような無造作さで広げられている。

 シンクには、水滴の残る湯呑みが一つ。

 その光景が、僕に「この家には自分以外にも生活している人間がいる」という当たり前の事実を、無言で、しかし力強く突きつけてくる。


 ガスコンロの上には、小さな雪平鍋。

 その蓋の上に、黄色い付箋が貼られている。

 

『豚汁、温めて食べて。おやすみ』

 

 見慣れた、少し右上がりの丁寧な筆跡。

 僕はそれを剥がすと、親指の腹で付箋の粘着部分を弄びながら、コンロの火をつけた。

 カチカチカチ、ボッ、という乾いた音が響き、青い炎が鍋の底を舐める。

 

 冷え切っていた鍋の中身が、次第に熱を帯びていく。

 最初は沈黙を守っていた液体が、やがて縁の方から微かな泡を立て始め、コトコトと蓋を揺らした。

 その瞬間、味噌の香ばしい匂いが爆発するように立ち上る。

 

 深夜の冷えた空気を、根菜の甘みと豚肉の脂の香りが、ゆっくりと塗り替えていく。

 お玉を差し込み、軽くかき混ぜる。

 底に沈んでいた里芋が、重々しく浮き上がってきた。

 ごぼう、人参、大根。

 どの具材も角が取れるまで煮込まれており、家庭料理特有の「時間の堆積」を感じさせる。

 

 僕は食器棚から、少し厚手の汁椀を取り出した。

 炊飯器に残った最後の一膳分の飯を茶碗に盛り、温まった豚汁をたっぷりと注ぐ。

 

 誰もいないダイニングテーブル。

 その中央に自分の場所を作り、僕は手を合わせた。

 

「……いただきます」

 

 まずは汁を一口。

 熱い液体が喉を通り、空っぽの胃にじんわりと染み渡る。

 五臓六腑に熱が染み込んでいく感覚に、思わず目が細まった。

 里芋は、舌で押すだけで簡単に崩れるほど柔らかい。

 噛みしめるたびに、出汁の旨みと芋のねっとりとした甘みが口いっぱいに広がる。

 

 続いて、白飯を一口。

 少し硬めに炊かれた米が、濃厚な豚汁の脂を中和し、次のひと口を誘う。

 豚肉の細切れを噛みしめる。

 それは単なる栄養の摂取ではなく、今日一日の配信で磨り減った精神を、物理的に補修していく作業のようでもあった。

 

 箸を動かす音。

 咀嚼する音。

 それだけが、夜の静寂の一部としてリビングに溶け込んでいく。

 

 モニター越しに浴びていた無数の視線。

 キーボードを叩く指の震え。

 勝利の瞬間の歓声。

 それら全てが、この一杯の豚汁によって、確かな「日常」へと引き戻されていく。

 ここにあるのは、観測者もいない、評価もされない、ただの「生活」だ。

 

 最後の一滴まで汁を飲み干し、僕はふぅと深い息を吐いた。

 

 胃に感じる確かな重み。

 それが、僕がこの世界に肉体を持って存在していることの、唯一の証明のように思えた。

 

 椅子から立ち上がり、食器を洗う。

 蛇口から出る水の音が、静かな家の中で意外なほど大きく響き、やがて排水口へと吸い込まれていった。

 拭き上げた椀を棚のいつもの場所に戻し、リビングの電気を消す。

 

 視界がふっと暗転する。

 だが、恐れはない。

 暗闇の中、階段を上がる僕の鼻腔には、まだ微かに味噌の匂いが残っていた。

 

 明日のランク戦も、きっといける。

 

 自室のドアノブを掴む直前、僕は誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。

 

「今日も、夜食はうまかった」

 

 扉を開けると、そこにはまだ、消し忘れたサブモニターの通知ランプが、暗闇の中で規則正しく明滅していた。

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2026年1月15日 23:00
2026年1月16日 23:00
2026年1月17日 23:00

孤独な深夜の配信メシ 五平 @FiveFlat

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