第三話|遺留

夜、

エルは目を覚ました。


悪夢を見たわけではない。

ただ、トイレに行きたくなっただけだった。


家の中は静かだった。

自分の呼吸の音さえ聞こえるほどに。


ミラを起こさないよう、

彼はそっとベッドを降りた。



廊下の明かりはついていなかった。


ただ一筋、

両親の寝室の扉の隙間から

淡い光が漏れている。


エルは足を止めた。


そこは、

普段ならこの時間は暗いはずだった。



「お母さん」と

声をかけようとした。


だが、近づいたとき、

微かな音が耳に届いた。


とても小さな音。


息を殺すような、

押し殺された呼吸。



扉は、完全には閉まっていなかった。


エルは扉の外に立ち、

声を出さなかった。


母が、ベッドの縁に座っているのが見えた。



リアは扉に背を向けていた。


その両手には、

ひとつの物が大切そうに抱えられていた。


金属製の徽章だった。



彼女はその徽章を、

額に当てた。


動きは、とてもゆっくりだった。


確かめているようで、

何かに耐えているようでもあった。



彼女は目を閉じた。


しばらくして、

一滴の涙が頬を伝って落ちた。


音は、なかった。



エルは、その場に立ち尽くしていた。


立ち去るべきかどうか、

分からなかった。


そして、

この光景を見てしまったこと自体が

正しかったのかも、分からなかった。



ベッド脇の引き出しは、開いたままだった。


あの徽章は、

すでに彼女の手の中にあった。



リアは、ゆっくりと手を下ろした。


もう、それを見ることはなかった。


ただ、握りしめていた。



徽章の縁が、

灯りを受けてわずかに光った。


中央には、

ひとつの文字が刻まれていた。


――「特」。



エルは、それを見た。


その文字を、

彼は今まで見たことがなかった。


けれど、その瞬間、

はっきりと記憶に刻まれた。



リアは深く息を吸った。


そして、

徽章を引き出しに戻した。


動作は、とても静かだった。


一瞬、手を止めてから――

鍵は、かけなかった。



振り返った彼女は、

扉の前に立つエルと目が合った。



二人とも、

すぐには言葉を発さなかった。



「……どうして起きているの?」


先に口を開いたのはリアだった。

声は、少しかすれていた。



「トイレに行きたくて」


エルは答えた。

俯いたまま。


「わざと見たわけじゃない」



リアは、しばらく彼を見つめていた。


否定もしなかった。

説明もしなかった。


ただ歩み寄り、

彼の前にしゃがみ込んだ。



そして、

彼を胸に抱き寄せた。



徽章のことには触れなかった。

父のことにも触れなかった。


ただ、

静かに抱きしめていた。



しばらくしてから、

彼女は低く言った。


「もう、大丈夫よ」



エルは返事をしなかった。


ただ、

彼女の体に身を預けていた。



ベッドに戻ったあと、

彼は目を開けたまま、天井を見つめていた。


頭の中には、

あの徽章が浮かんでいた。


そして、あの文字。



――「特」。



それが何を意味するのか、

彼には分からなかった。


ただひとつ、

今の自分が触れていいものではないと、

そう感じていた。



父が遺したのは、

空席だけではなかった。


母でさえ、

先に背負わなければならない

重さが、そこにはあった。

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