第二話|衝突

カールが去ったあと、

日々はすぐに変わったわけではなかった。


空は相変わらず明け、

風はロヴィア村の屋根を吹き抜けていく。

村の人々も、いつも通り起き、働き、言葉を交わしていた。


ただ、

いくつかの場所が、

少しずつ空いていった。



朝、

エルはこれまでと同じ時間に目を覚ました。


目を開け、

しばらく天井を見つめていた。


以前ならこの時間、

父は先に起き、廊下を歩き、

木の床が小さく、聞き慣れた音を立てていた。


今は、もうない。



朝食の時間、

ミラはいつも先に席に着いた。


自分のカップをテーブルの中央へ押し出し、

空いている場所を見た。


「パパのカップは?」

彼女はそう尋ねた。


リアは一瞬、動きを止めた。


「パパは出かけたの。」

そう答えた。


ミラはうなずいた。

答えを覚えたようで、

けれど、まだ完全には理解していない様子だった。



午前中、

誰かがドアを叩いた。


慌ただしい音ではない。

聞き慣れた、落ち着いたリズムだった。


リアが扉を開ける。


そこに立っていたのは、ひとりの男だった。


彼女は一瞬、言葉を失った。


「……イヴァン?」

思わず名前を呼ぶ。

「どうして戻ってきたの?」


イヴァンは戸口に立ち、

外の風をまだ身にまとっていた。


「昨夜、カールが俺を訪ねてきた。」

彼は言った。


その一言で、

リアの動きが止まる。


「もし戻らなかったら、

お前たちを見ていてくれって。」


イヴァンの声は低く、

まるで

大きな声にしてはいけないことを

伝えるかのようだった。



家の中で、

エルはそれを聞いていた。


顔を上げる。


「パパはいつ帰ってくるの?」

彼は尋ねた。


イヴァンは彼を見た。


ほんの一瞬だけ。


「すぐ、だろうな。」

そう言ってから、付け加えた。

「少なくとも、

本人はそう願っていた。」



イヴァンは長居をしなかった。


帰り際、

彼はしゃがみ込み、エルの肩を軽く叩いた。


「何かあったら来い。」

「一人で抱え込むな。」


立ち上がると、

もう一言、付け足した。


「村の外れに、

部屋を借りた。」

「遠くはない。」


エルはうなずいた。


その言葉を、

心に留めた。



扉が閉まると、

家の中は一気に静かになった。


リアはその場に立ち尽くし、

しばらくしてから振り返った。


「午後は外で遊んできなさい。」

彼女はエルに言った。

「夕飯までには戻るのよ。

遅くならないで。」



午後、

エルは外出の準備をした。


上着を羽織り、扉に手をかけたとき、

裾を引かれる感触があった。


振り返る。


ミラが背後に立ち、

指で彼の服を強く掴んでいた。


「お兄ちゃん……」

顔を上げて言う。

「出かけるの?」


エルは一瞬、言葉に詰まった。


「少し、外を歩いてくるだけだよ。」

「すぐ戻る。」


ミラは手を離さなかった。


俯いたまま、

ぎゅっと掴み続ける。


「一人で家にいるの、嫌。」

小さな声だった。


エルは彼女を見た。


そして、うなずいた。



二人で家を出た。


遊びたかったわけではない。

ミラが、

置いていかれるのを嫌がっただけだった。


村の空き地では、

子どもたちが集まっていた。


ミラはすぐに駆けていく。


エルは少し離れた場所から、

その様子を見ていた。



「その子、妹?」

誰かが聞いた。


エルはうなずく。


別の子どもが笑った。


「お前の父ちゃん、いなくなったんだろ?」

「彼女、知ってるの?」


ミラは足を止め、振り返った。


「パパは帰ってくるよ。」

きっぱりと言った。


声は小さいのに、

とても真剣だった。



誰かが鼻で笑った。


「捨てられたって聞いたけど。」

「二人とも、かわいそうだな。」



その瞬間、

エルの頭は真っ白になった。


自分のことではない。


ミラが、

彼の服を掴んだからだ。


彼女は泣かなかった。

ただ、強く掴んでいた。



エルは飛び出した。



考える余裕はなかった。

相手の顔も、よく見ていない。


ただ、

その言葉を、

これ以上彼女の前に置かせてはいけないと

思っただけだった。


拳を振り、

足元はふらつく。


倒され、

また立ち上がる。


背後で、ミラの声が響いた。


「お兄ちゃん!」



すべてが収まったとき、

エルは地面に座り込み、

荒く息をしていた。


腕には引っかき傷、

膝は赤く腫れていた。


ミラは彼の前に立ち、

目を大きく見開いていた。



「お兄ちゃん……痛い?」


小さな手を伸ばし、

触れたいのに、触れられない。


エルは首を振った。


「痛くない。」


嘘だった。



帰り道、

ミラはずっと彼の隣を歩いた。


ふと立ち止まり、言った。


「お兄ちゃん、

もうケンカしないで。」


エルは彼女を見下ろす。


「どうして?」


「だって、怪我するでしょ。」

「そうしたら、ママが泣く。」



エルは答えなかった。


ただ、

彼女の手を強く握った。



家に戻ると、

リアは一目で傷に気づいた。


「エル。」

声がすぐに低くなる。


ミラは反射的に、

兄の前に立った。


「わたしが悪いの。」

慌てて言う。

「お兄ちゃんは、わたしのために……」



リアは一瞬、言葉を失い、

それからしゃがんだ。


「ミラ、大丈夫よ。」

頭を撫でる。

「中で待っていてくれる?」


ミラは少し迷ってから、

ゆっくりと手を離した。



「どうして、こんなことに?」

リアはエルを見た。


エルは俯いた。


「パパが、

僕たちを捨てたって言われた。」


今度は、

言葉を飲み込まなかった。



家の中は静まり返った。


リアは傷の手当てをしながら、

いつも通り落ち着いた手つきだった。


「それで、どうしたの?」

彼女は尋ねた。


「殴り返した。」



最後の包帯を巻き終え、

リアは顔を上げた。


「それで、勝ったの?」



エルは言葉に詰まった。


ミラが服の裾を掴んでいた、

あの感触を思い出す。


「分からない。」

「でも、

もう何も言われなかった。」



リアは少し黙ったあと、言った。


「次は、

まず妹を守りなさい。」

「それから、自分。」



その夜、

ミラは自分のおもちゃを

エルのベッドのそばに置いた。


「これ、あげる。」

「そうしたら、痛くないでしょ。」



エルはベッドに横たわり、

そのおもちゃを見つめた。


体の痛みは残っていた。


けれど、

ひとつだけ、はっきり分かったことがあった。



父はいなくなった。

だが、

彼が遺したものは、

少しずつ、

エルの責任になり始めていた。

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