屋根の上の黒い点
蟒蛇シロウ
屋根の上の黒い点
最近、近所の迷惑おじさんが見えなくなった。
それだけで、家の前の空気が少し軽くなった気がした。
あのおじさんは、僕ら子供を見つけると決まって怒鳴った。
「うるせぇ!」「どっか行け!」
言葉は毎回似ているけど、声はその日によって違っていた。酔っている時はねっとりして、怒りが濁っていて、素面っぽい時は刃物みたいに鋭かった。
友人たちは、わざとおじさんの前を通って、追いかけられて楽しんでいた。
「また来た! 走れ走れ!」
「逃げろ!」
彼らは笑って逃げた。ゲームみたいに。
でも僕にはそれができなかった。
おじさんの目が、本気に見えたからだ。
ふざけて追いかけている人の目じゃない。何かを“許さない”目。
追いついたら、何かが起きる目。
おじさんは若い女性にはセクハラをして、男性には庭先で飲んでいるお酒の瓶を手に罵声を浴びせた。
野良猫を蹴飛ばした、という話も聞いた。小学校の池の鯉を盗もうとしたのを先生が見つけて、すごい騒ぎになったこともあった。
でも、どれが本当でどれが嘘かわからない。
どれも大人たちのひそひそ話で、本当のところは僕には分からない。
でも、分からないからこそ怖かった。
噂って、いつだって尻尾が増える。増えた尻尾の分だけ、相手は大きく見える。
一度、おじさんが近所に引っ越してきた若い夫婦の奥さんを無理やり家に連れ込もうとした件で、警察に逮捕されたことがあった。
僕はその夜、窓からパトカーの赤い光が壁に反射するのを見た。カーテンの隙間から覗いたら、道がいつもより明るくて、近所の大人たちが遠巻きに立っていた。
サイレンの音が消えた後も、耳の中にしばらく残って、眠ろうとするとまた聞こえる気がした。
おじさんがいない間は、少し平和だった。
平和というより、警戒の糸が緩んだ感じ。僕らは道を選ばなくてよくなった。遠回りしなくてよくなった。帰り道に息を詰めなくてよくなった。
夕方の薄暗い時間が、少しだけ普通に戻った。
おじさんの家には、娘と婿が一緒に暮らしていた。
娘さんは小さい人で、いつもすぐ頭を下げる人だ。婿さんは背が高くて、汗かきなのか、夏でも冬でも額を拭っている印象だ。
二人はよく、近所でおじさんが何かやらかした後に、家々を回って謝っていた。
「本当にすみません」「ご迷惑をおかけして……」
言葉は丁寧なのに、声はいつも疲れていた。悪いのはおじさんなのに、二人の顔がどんどん削れていくみたいだった。
そんな迷惑おじさんが帰ってきて、僕は憂鬱な気分になった。
“また始まる”と思った。
僕の中の、あの細い糸が、また張り直される。
学校から帰る道が、もう一度別の道になる。遊ぶ場所が狭くなる。友人たちの笑い声が、少し遠く感じる。
でも、おじさんはすぐに見えなくなった。
最初は、たまたま見かけなかっただけだと思った。
けれど二日、三日と、姿がない。
庭先の椅子も、いつもそこにあった酒瓶も見えない。
おじさんの家の前を通ると、いつも聞こえた咳払いとか、ガラス戸の開け閉めの音とか、そういう“いる音”がしなかった。
どうしたんだろう、と思って家の前まで行くと、娘と婿が何やら荷物をたくさん積み込んでいた。
段ボールがいくつも地面に置かれていて、ガムテープの端が風でぴろぴろ揺れていた。車のトランクは開けっぱなしで、引っ越し用の毛布が覗いている。
引っ越しって、街の中に一つ穴が空くみたいだ。そこだけ空気が落ち着かなくて、よそよそしい。
「やぁ、近所の子だね」
婿さんが僕を見て、汗を拭いながら笑った。
笑顔なのに、目の下の影が濃い。妙に唇が乾いている。人が笑う時に、そこばかり目がいくのは、僕が変なのだろうか。
「引っ越すことにしたんだ。今までお義父さんが迷惑をかけたね」
彼は小さく頭を下げた。
頭を下げる角度が、いつもより深かった気がする。深いと、謝罪が重くなる。重いと、余計に何かを想像してしまう。
「おじさんも一緒ですか?」
と尋ねると、彼はうなずいた。
「うん。先に行ってもらったんだ。もうお義父さんが迷惑をかけることはないよ」
僕は「どこに?」とか「なんで?」とか聞かなかった。
聞いていいのか分からなかったし、聞いたら急に怖くなりそうだったから。
婿さんの言葉に、僕は悪いと思いながらも嬉しさから、笑顔になってしまった。
自分の笑顔が、急に気持ち悪く感じた。
“よかった”って、思ってしまった。
誰かがいなくなったのに。
婿さんはまた汗を拭って、荷物の方を見た。
娘さんは遠くで段ボールを抱え、僕の方を見たけれど、すぐ目をそらした。
目が合った気がしたのに、合わなかったみたいに。
あれから数日が経った。
迷惑おじさんの家は嘘のように静かになった。
婿夫婦はすでに引っ越してしまっている。
引っ越し当日のざわつきが嘘だったみたいに、道はいつもの顔をしていた。
ただ、家だけがぽっかりと黙っていた。窓が全部、閉じ切った目みたいに見えた。
カーテンもない。生活の気配がない家は、何を見ても“置き忘れ”に見える。
友人たちに誘われ、空き家になったおじさんちに忍び込もうか、という話になったこともある。
「なぁ、窓の鍵、開いてそうじゃね?」
「入ったら宝物とかあるかも」
「酒瓶いっぱいあるんじゃね?」
彼らは目を輝かせた。
空き家という言葉は、僕らにとって秘密基地みたいで、冒険の匂いがする。
でも、やっぱりみんなおじさんの恐さを思い出して、結局その話は無しになった。
今日もおじさんちの前は静かだ。
静かすぎて、耳がひまになる。
風が電線を鳴らす音とか、遠くの車の音とか、普段は気にしない音が全部聞こえる。
でもなんでだろう。屋根の上にたくさんのカラスが集まっている。
黒い点が、いくつも。
一羽や二羽じゃない。数えようとすると途中で分からなくなるくらい。
カラスは屋根をしきりにつついている。
コツ、コツ、コツ……と、乾いた音が一定のリズムで続いて、なぜか時間の感覚がずれる。
つつくたびに首が小さく上下して、黒い羽が光を吸っているみたいに見えた。
家を壊そうとしてるのかな?
僕は少し距離を取って、塀の陰から見た。
カラスの目が、ときどきこちらを向いている気がした。
ただ見ているだけなのに、見られている感じがする。
だけど、僕が勝手に怖がっているだけだ。たぶん。
おじさんがいたら、怒鳴り声で追い払われてたんだろうな、と思う。
「うるせぇ!」「出てけ!」
あの声が、ここにはもうない。
声がないだけで、家は急に弱くなる。
家主を失った家はどこか寂しく、情けなくも見えた。
それは僕が望んだことのはずなのに。
カラスたちはまだ屋根をつついている。
一羽が短く鳴いた。
その声が合図みたいで、別の一羽が場所を移動し、またつつく。
コツコツという音が、僕の頭の中で少しだけ大きくなった。
僕は喉が乾いて、唾を飲み込んだ。
口の中が、変に鉄っぽい味がした。
屋根をつつく音が、一瞬だけ止まった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、止まった“間”が、妙に長かった。
次の瞬間、またコツコツが始まった。
何も変わっていないのに、空気だけが変わったように感じた。
僕はそれ以上近づかないで、家に戻った。
走ってはいない。走ったら、怖がっているのが自分でも分かってしまうから。
だけど歩く足は、いつもより速かった。
帰り道、ふと振り返ると、カラスはまだ屋根の上にいた。
黒い点が動いている。
屋根をつつく音は聞こえないはずなのに、耳の奥でコツコツが続いている気がした。
屋根の上の黒い点 蟒蛇シロウ @Arcadia5454
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