第2話 第1王女の決意
控えの間には、静かな空気が満ちていた。
壁越しに聞こえてくるのは、外庭で行われている軽い訓練の音。木剣が触れ合う乾いた響きが、一定のリズムで流れてくる。その合間に、ぱたん、と一冊の書物が閉じられた。
第一王女は、机に両肘をついたまま、長く息を吐いた。
「……はぁ」
「深いため息ですね。三回目です」
控えめながらも確かな声で、護衛隊長が言った。彼は壁際に立ち、いつでも王女を守れる距離を保っている。
「数えなくていいんです。癖みたいなものです」
「不満がある時の殿下の癖でしょう?」
図星を突かれ、王女は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……そんなにわかりやすいですか、私」
「ずっとおそばにおりますので」
その返答に、王女は小さく苦笑した。
「……なら、言ってしまいますけど」
椅子から少し身を起こし、視線を宙に向ける。
「どうして私は、“どの国のお妃になるのか”もわからないまま、三つの国の言葉と宗派と作法を覚え続けなきゃいけないんでしょうね」
護衛隊長は即答しなかった。言葉を選ぶ沈黙が、部屋に落ちる。
「北の敬語は硬すぎて喉が痛くなるし、南の言い回しは語尾が伸びて、歌っているみたいだし……自国では“らしくない”って言われるし」
積み重ねてきた不満が、静かに溢れ出る。
「“どの国へ嫁ぐかわからないから全部覚えろ”って……そんなの、ただの道具みたいじゃないですか」
その声は、どこか幼さを帯びていた。責任を背負う者ほど、弱音を吐く時だけ、子どものようになる。
「そのお気持ちは、もっともです」
護衛隊長は、否定しなかった。
「ですが……殿下が努力しておられるから、この国はまだ“道具のように扱われない”でいられるのです」
王女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……どういうことです?」
「もし殿下が何も学ばなければ、大国は力で選ぶでしょう。従順な王女を、です。しかし殿下は、三つの文化を理解し、言葉を操り、宗派の違いを正確に扱う。その姿そのものが、“価値ある存在”であることを示しています」
「……価値、ですか」
「はい。使い捨てではありません。“選ばれるべき人物”として扱われる。殿下が学んだすべてが、殿下自身を守っているのです」
王女は、胸に手を当てた。
「……守って、いる……」
「ええ。言葉や作法は鎧になります。私の剣も殿下を守りますが、殿下自身の“知”は、それ以上の盾でしょう」
しばらくの沈黙の後、王女は小さく息を吐いた。
「……少し、救われた気がします」
「それはようございました」
だが、王女は首を横に振った。
「でも、やっぱり不満はあります」
「承知しております」
そのやり取りを、廊下の曲がり角で、第六王女は立ち止まって聞いていた。聞くつもりはなかった。ただ、声があまりにも真っ直ぐで、足が止まってしまったのだ。
(ああ……そうか)
姉も、同じことを考えていた。
「私、できれば……自分で、選びたかった」
その言葉が、第六王女の胸に落ちる。選ぶ、という願い。それは、自分が一度も口に出せなかったものだった。
「どの国へ行くか、どんな人と生きるのか……ほんの少しでいいから、私の意思で決めてみたかった」
“ほんの少し”。
その現実的な言い方が、かえって苦しい。大それた自由ではない。ただ、人として息ができる余白が欲しかっただけなのに。
「殿下の“意思”は、必ずどこかで生きます」
護衛隊長の声は、静かで、揺るがない。
「たとえ婚姻が決まっていようとも、生き方を決めるのは殿下です。王女である前に、殿下は殿下です」
王女である前に、人。
第六王女は、その順番を初めて知った。
控えの間で、第一王女はゆっくりと頷いた。
「……隊長。いつか、本当に私が折れそうになったら、その時も支えてくれますか?」
「当然です。私は、そのために剣を持っています」
「……ありがとう」
やがて侍女が呼びに来て、二人は並んで歩き出す。
「もう少しだけ、隣で歩いてください」
「喜んで」
足音が遠ざかる。
曲がり角の影で、第六王女は動けないまま立ち尽くしていた。
けれど、次に歩き出す時――
彼女はもう、何も知らなかった頃の自分ではない。
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