第4話 最強、嫌われました
ギルドカードを握りしめたまま、私は受付の前で固まっていた。
「……えっと。リリア様?」
受付嬢――赤茶色の髪を結った彼女が、心配そうに覗き込んでくる。
「はい。えっと……確認なんですけど」
私は笑顔を作ろうとして、失敗した。
「私、いま……一文無しなんですよね?」
受付嬢は一瞬、言葉に詰まった。それから、仕事用の微笑みを貼り直す。
「……はい。現状、そうですね」
「ですよね……」
恋愛。出会い。宿。ベッド。ふわふわの布団。
そんな夢が、銅貨八枚で粉砕された。
胃のあたりが、きゅっと痛い。異世界って、もっと優しいと思ってた。転生したら、最低限の生活費くらい支給されるとか、そういう……。
(神様、財布くらい用意しとけよ……)
でも文句を言っても、ここには神様はいない。いるのは現実だけだ。
「……リリア様。初心者向けの依頼でしたら、すぐ受けられます。報酬も即日支払いです」
受付嬢が掲示板を指差す。木の板に、紙がぎっしり貼られている。文字が読めるのが、また腹立つ。
「初心者向け……」
私は唇を噛んだ。
恋愛のために異世界へ来たのに、最初の戦いは金欠だった。
「……一番簡単なの、どれですか」
「こちらですね。街外れの森で、魔物の討伐依頼です」
受付嬢は一枚の紙を抜いて、私に見せた。
【依頼:森周辺のゴブリン排除/行方不明者の捜索補助】
【被害:子供の行方不明多数、村人の負傷】
【注意:数が増えているため、単独行動禁止】
「子供が……行方不明?」
胸の奥が、少しだけ冷える。
「……最近、急に増えたんです。森に遊びに行った子が帰ってこない、という報告が」
「原因はゴブリン?」
「はい。目撃情報がありまして。ですが……」
受付嬢の声が、ほんの少し慎重になる。
「リリア様は……少々、特殊ですので」
またそれだ。「特殊」という便利な言葉。会社でも聞き飽きた。
「……監視、つけられます?」
私が聞くと、受付嬢は驚いたように目を丸くする。
「え?」
「いや、ほら。私、勇者級らしいので。勝手に行ったら怒られそうだなって」
受付嬢は、少し困った顔をしてから頷いた。
「……実は、支部長から指示があります。今回の依頼には、ギルド所属の監視員が同行します」
「監視員」
その言葉だけで、男の人だろうな、と分かってしまう。なんとなく。
「……一人ですか」
「はい。一名です。こちらへ」
受付嬢が奥へ声をかけると、しばらくしてホールの隅から男が一人出てきた。
年齢は二十代後半くらい。黒髪短髪。顔立ちは整っているけど、表情が固い。革鎧に、腰には短剣。背には弓。いかにも斥候っぽい装備。
目が合った瞬間、彼は反射みたいに視線を逸らした。
(あ、やっぱり男はこうなるんだ)
分かってる。分かってるけど、胸の奥がちくりとする。
「監視員の……ロランです」
名乗り方が、仕事そのものだった。丁寧。でも距離がある。
「リリアです。よろしくお願いします」
私はできるだけ明るく言った。
どうせ距離を取られるなら、こっちはこっちでポジティブに行くしかない。
「……森まで案内します。危険なので、勝手に先へ行かないでください」
「はいはい」
私はわざと軽く返した。
そして、頭の中の恋愛フォルダが勝手に開いた。
(男と二人で森……)
これ、デートじゃない?
いや監視だし討伐だし、完全に仕事なんだけど。だけど、二人きりで出かけるのは事実だ。
(……やば。異世界初デート、森スタートなんだけど)
自分で思って、ちょっと頬が熱くなる。見た目は二十歳なのに、こういうところは変わらない。
「……何か」
ロランが、警戒した顔でこちらを見る。
「え? なにも?」
私は笑ってごまかした。
気づかれた。恥ずかしい。やっぱり私は恋愛が下手だ。
◆
森は、街の外れにあった。
石畳の道が土に変わり、人の気配が薄くなる。空気が冷たく、湿っている。木々が密集し、日光が地面まで届きにくい。
「……ここが、行方不明が出ている森です」
ロランが低い声で言う。声のトーンだけで、緊張が伝わる。
地面には、子供の足跡みたいな小さな凹みが残っていた。踏み荒らされた草。折れた枝。落ちた木の実。
「遊びに来てたんだ……」
私は小さく呟いた。
「……最近まで、ここは安全でした。街の子供も、村の子も、普通に遊んでた」
ロランは周囲を見回しながら、耳を澄ませている。
「けど、急にゴブリンが増えた。理由は分からない。森の奥に、何かあるかもしれません」
「……うん」
私は頷いた。軽口を叩く空気じゃない。
でも、胸の奥にもう一つの感情がある。
(私、いま……男と二人で森にいる)
やっぱり、ちょっとだけ嬉しい。
「ロランさんって、彼女いるんですか?」
口から出た。
ロランの足が止まる。
「……は?」
「あ、いや、すみません。雑談です。こういう時の雑談って大事かなって」
言い訳がダサい。二十九歳のくせに。
ロランは、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「……任務中です」
「ですよね」
即敗北。私は肩を落とす。
(デートって言ったら怒られるやつだ)
それでも諦めたくなくて、私は笑って言った。
「じゃあ終わったら、街でお茶でも――」
「……来ます」
ロランが、急に手を上げて私を制した。
空気が変わった。
森の奥から、ぬるい臭いが流れてくる。腐った肉みたいな。泥みたいな。
鳥の声が止まっている。
「……魔物の気配?」
私が聞くと、ロランは無言で頷いた。
そして、彼は目を閉じて、胸の前で指を組んだ。
「敵探知」
小さく呟くと、彼の瞳が一瞬だけ光る。
ロランの顔色が変わった。
「……多い」
「え?」
「想定の……数倍いる」
声が震えている。プロの斥候が震えるって、相当だ。
「撤退します」
ロランが即断した。
「え、でも子供が……」
「まずは報告です。これは、初心者向けじゃない」
ロランは私の腕を掴もうとして――途中で、止まった。
触れない。
触れたくない、みたいな躊躇い。
その一瞬の間に。
森の影が動いた。
「ギャッ……!」
嫌な声。甲高くて、湿っている。
草を踏みつける音が、四方から一気に迫る。
現れたのは、緑色の小柄な人型。牙が出ていて、目が濁っている。手には錆びた短剣や棍棒。服と言えるか分からない汚い布をまとっている。
(……ゴブリン)
初めて見る“魔物”の姿に、胃がひゅっと縮んだ。
ゲームの雑魚みたいに軽い存在じゃない。臭い。汚い。生々しい。人間を襲う目をしている。
「リリアさん、下がって!」
ロランが弓を引いた。矢が一本、ゴブリンの喉に刺さる。ぐしゃ、と嫌な音。
私は固まった。
(……殺した)
頭が追いつかない。
ゴブリンが笑っている。仲間が死んだのに、笑っている。
次の瞬間、飛びかかってきた。
「っ……!」
ロランが私の前に出る。短剣を抜き、斬りかかる。だが数が多すぎる。
背後から別のゴブリンが回り込む。ロランの死角。
「危ない!」
私は叫んだ。
体が動いた。
考えるより先に、足が出た。腕が振れた。
その勢いのまま拳を振り抜く。
――一閃。
そんな表現が浮かぶくらい、動きが速かった。
拳が空を裂いた瞬間、風が鳴いた。
ゴブリンが、吹き飛んだ。
いや、吹き飛んだだけじゃない。衝撃が波になって広がり、前方にいたゴブリンたちがまとめて弾き飛ばされる。
木々が、揺れた。
揺れたどころじゃない。細い木は根元から折れ、枝が飛び散った。地面が抉れ、土が舞う。
「……え?」
私は自分の拳を見た。
何が起きたのか分からない。
(私、いま……殴ったよね?)
殴っただけで、森が壊れた。
ロランが、動きを止めていた。
矢をつがえたまま、固まっている。
そして、その目が――
恐怖で、揺れていた。
私を見ている。
魔物じゃなくて、私を。
(……あ)
胸の奥が、冷たくなる。
まただ。
また、こういう目だ。
近寄れない、触れない、距離を取る。
私が何かしたからじゃない。私が“そういう存在”だから。
「……ロランさん?」
私は声をかけた。震えないように、明るく。
でもロランは、返事をしなかった。喉が鳴る音だけが聞こえた。
その隙を狙って、ゴブリンが再び襲いかかってくる。
「ギャギャ!」
「……っ」
ロランが動こうとする。でも足が一瞬、遅れた。恐怖が体を縛っている。
私は――腹が立った。
ゴブリンにじゃない。
ロランに恐れられた自分に。
そして、恐れさせる原因を作ったゴブリンに。
「……お前らのせいだァ……!」
涙が出そうになった。声が裏返る。
「やっと男と二人で外出したのに! デートかもって思ったのに!」
全部ゴブリンのせいにした。
私は泣きそうな顔のまま、拳を振るった。
一発。
二発。
三発。
ゴブリンが吹き飛ぶ。木が折れる。土が跳ねる。
森が、戦場というより災害みたいになっていく。
「やめろ!木が――」
ロランが叫ぶ。でも私は止まらない。止められない。
止めたら、泣いてしまう。
「嫌だぁ! 嫌われたくないのに! また選ばれないの嫌だぁ!」
涙が滲む。視界が揺れる。
だからこそ、拳がさらに速くなる。
ゴブリンは抵抗する暇もなく消えていった。棍棒が飛び、短剣が飛び、悲鳴が途切れる。
そして、静かになった。
森に残るのは、折れた木と、抉れた地面と、立ち尽くす私たち。
私は息を切らして、拳を下ろした。
「……は……」
自分の口から、情けない息が漏れる。
(やりすぎた)
分かってる。分かってるけど、止められなかった。
ロランは、私から距離を取って立っていた。
目が合わない。
見ない。
見たくない、みたいに。
胸が痛い。
「……子供は?」
私は声を絞り出した。
ロランは一瞬だけ周囲を見て、それから短く頷いた。
「……奥に、隠れている可能性があります。捜索します」
「私も――」
「……来ないでください」
ロランの声が、刺さった。
あまりに小さくて、あまりに強い拒絶。
私は、笑って誤魔化した。
「……そっか。うん。分かった」
捜索はすぐ終わった。
茂みの奥に、小さな影が二つ。泣き声。子供だった。震えて、抱き合っている。
ロランが近づき、優しく声をかけた。
「もう大丈夫だ。帰るぞ」
子供たちは、ロランにはしがみついた。
私を見ると――また目を逸らした。
(……そりゃそうだ)
森を壊した女だ。怖いに決まってる。
私は唇を噛んで、空を見上げた。泣かない。ここで泣いたら、本当に終わる。
◆
帰り道は、静かだった。
子供たちはロランの後ろを歩く。私は少し離れて、その後ろを歩く。
ロランは、一度も振り返らない。
目も合わせない。
話しかけない。
私は、青いマントの留め具をぎゅっと握った。
(……私の恋愛、始まってすらないんだけど)
でも、依頼は達成だ。子供も助けた。報酬がもらえる。それだけで今日は勝ちだと思うしかない。
◆
ギルドに戻ると、ホールの空気がまた一瞬止まった。
私を見る視線。距離。ひそひそ声。
受付嬢が、いつも通りの笑顔を作る。
「お帰りなさいませ。依頼の結果報告をお願いします」
ロランが報告した。ゴブリンの群れ、子供の救出、森の損壊――最後は言い方を選んでいた。だが事実は変わらない。
受付嬢が報酬袋を差し出す。
小さな革袋。ずしりと重い。
「銅貨……三十枚。加えて、救出の追加報酬で銀貨一枚です」
「……銀貨!」
私は思わず声を上げた。
受付嬢が少し笑う。女神に見えた。
「おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
報酬袋を握った瞬間、涙が出そうになった。
恋愛じゃない。お金で泣きそうになってる。悲しい。でも、生きるってこういうことだ。
ロランは、そのまま奥へ消えていった。
私を見ないまま。
私はホールの端の席に座り、酒を頼んだ。
苦い。喉が焼ける。でも飲まないと、心が崩れそうだった。
周囲には男がたくさんいる。冒険者。兵士。旅人。
なのに、私の席だけ空いている。誰も近づかない。笑い声が遠い。
(……最強って、こんなに寂しいんだ)
杯を握りしめた、その時。
「リリア・ヴァルハート」
低い声。
振り返ると、責任者ガレインが立っていた。
「奥へ来い」
拒否できない圧があった。
◆
奥の部屋。重い扉。静かな空気。
ガレインは机に手をつき、私を見た。
「報告を受けた」
「……はい」
「君は、街外れの森でゴブリンの群れを殲滅した。子供を救出した。森を……かなり破壊した」
「……すみません」
ガレインは短く息を吐いた。
「謝罪より、現実だ。君の力は、既に街の噂になっている。国へ報告が必要だ」
「……嫌です」
即答だった。
ガレインの眉が動く。
「嫌と言っても――」
「分かってます。でも……」
私は拳を握った。今日はもう、守るために握る拳じゃない。自分の心を守る拳だ。
「私、怖がられるの、もう嫌なんです」
ガレインが黙る。
沈黙の重さが、今日は痛い。
「……君が恐れられるのは、当然だ」
ガレインは淡々と言った。
「君は人を守れる。だが同時に、人を壊せる」
「壊す気なんて――」
「気がなくても壊せる。それが、勇者級の力というものだ」
言葉が胸に刺さる。
私は、今日、森を壊した。守るために。泣きたくなくて。
ガレインは続けた。
「だからこそ、魔王討伐だ。君の力の使い道を、定めろ。世界のために――」
「恋愛のために使います」
私は言い切った。
ガレインの目が一瞬だけ見開く。だが、すぐに疲れた顔になる。
「……君は」
「私、真面目に生きてきたんです」
私は、今日の自分の言葉を繰り返した。
「だから、今度こそ不真面目に恋愛します。……でも」
声が少しだけ小さくなる。
「……怖がられるのは、嫌です」
ガレインは、しばらく私を見ていた。見て、また逸らした。
「……ひとまず、宿を確保しろ。生活が安定しなければ、何も始まらん」
「はい」
「そして、次の依頼は――単独で受けるな。監視は続ける」
「……はい」
ガレインは、最後に一言だけ落とした。
「君が望む恋愛が、叶うことを祈る」
それは慰めなのか、皮肉なのか分からなかった。
◆
ギルドを出ると、夜風が冷たかった。
報酬袋が腰で鳴る。銅貨と銀貨の音。生きる音。
ギルド提携の宿は、受付嬢に教えられた通りすぐ見つかった。
「一泊、食事付きで銅貨八枚です」
宿の女将が言う。
「……払います」
私は袋から銅貨を数える。指が震える。現実感が凄い。異世界の初出費が宿代。
部屋は小さい。木の匂い。ベッドは硬い。だけど、ちゃんと屋根がある。
私はベッドに腰を下ろし、マントを脱いだ。
今日一日が、どっと重くなる。
森の臭い。ゴブリンの声。ロランの恐怖の目。
恋愛のために異世界へ来たのに、最初のデー(仮)は、嫌われるイベントだった。
「……はぁ」
私は枕に顔を押しつけた。
泣きたい。でも泣きたくない。
泣いたら、また弱い自分に戻る気がした。弱い自分は、また“選ばれない側”に押し戻される気がした。
だから私は、天井を見上げて小さく呟く。
「……明日は、絶対、誰かとちゃんと話す」
恋愛は、まだ始まってない。
でも、終わらせる気はない。
私は拳を握る。
壊すためじゃない。守るためでもない。
――選ばれるために。
そして、布団に潜り込み、目を閉じた。
異世界一日目の夜は、静かで、少しだけ寒かった。
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