1.4 ナキワメク。

 床に膝をついた瞬間、足から力が抜けた。


 石の感触がやけに冷たい。

 立とうとしても、身体が言うことを聞かなかった。


「……リンカ様」


 名前を呼ばれる。

 その距離が、近い。

 最近は名前を呼ばれる事が多いな。と、

 ふと思った。


 次の瞬間、視界が傾いた。

 倒れる――と思ったところで、背中に回された腕がそれを止める。


 細い腕だった。

 だが、迷いはなかった。


 リンカの額が、柔らかなものに触れる。

 反射的に顔を埋めた拍子に、息が詰まった。


「……っ」

 声にならない音が漏れる。

温かい。温かくて、柔らかい。

 アリシアは何も言わず、リンカを抱えていた。

 立たせるでも、離すでもない。

 ただ、受け止める。

 桃色の髪を撫でるように、小さな手で、腕で。


 それだけなのに――

 張りつめていたものが、一気に崩れた。


「……っ、う……」


 喉が震える。

 息を吸うたび、胸の奥が痛む。

「……あ、ぁ……」


 言葉に、ならない。

 言葉にしたら、戻れなくなる気がした。

 だけど。

 

 それでも、涙は止まらなかった。


 ぽた、ぽた、と。

 聖衣を濡らす感触が、はっきりと分かる。

「ク……クラウン、ノ……」

 

 掠れた声で、名前が零れた。


「ノリア……アラン……」

 

 呼んだところで、返事はない。

 分かっている。

 分かっているのに。


「……わたし、さ……」

 声が裏返る。

「ちゃんと……選んだ、つもりだった……」


 正しいと思った。

 間違っていないと、信じた。


「それなのに……」

 息が、乱れる。


「なんで……なんで、こんな……」


 両手が、アリシアの衣を掴んでいた。

 縋るように、逃がさないように。


「……どうすれば、よかったの……?」


 問いは、宙に溶ける。


 アリシアの腕がわずかに力を増した。

 答えの代わりに、抱く。


「……リンカ様」

 耳元で囁かれる声は、静かだった。


「貴方が、選択したことなのですよ」


 その言葉は、責める調子ではない。

 事実を、淡々と置いただけ。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


「……っ!!」

 

 リンカの喉が、ひくりと鳴る。

 

「でも!!」

 

 顔を上げようとして、できなかった。

 視界が滲んで、何も見えない。


「しょうがないじゃん!!!!」

 

 叫びは、幼いものだった。


「私は……私は……!!」

 息が続かない。


「どうすればよかったの!?

 誰かを見捨てればよかったの!?

 見殺しにすれば、正解だったの!?」


 声が割れる。

 「ねえ!!教えてよ……!!聖女なんでしょ!!」


「……もう……」


 身体が、小さく震える。


「……わかんないよぉ……」


 嗚咽が、部屋に響いた。


 勇者の声じゃない。

 英雄の泣き方でもない。

 

それは、 十六歳で戦争に巻き込まれた、

 ただの少女の泣き声だった。

 

 ――分からないなりに努力した。

 ――苦手な決断も沢山してきた。

 結果がこれだ。


 アリシアは何も言わない。

 ただ、リンカの頭に顎を乗せ、静かに抱いている。


 その視線がどこを見ているのか。

 リンカには分からない。


 分からないまま、リンカは泣き続けた。


 泣いても、喚いても。

 夜は過ぎていく。


 選んだことは消えない。

 背負ったものは、下ろせない。

 

 あの時、引き止めていればクラウンは――

 あの時、勇気を出していればノリアは――

 あの時、気をしっかり保てていればアランは――


 たらればである――


 それでも――

 涙が枯れるまで、抱かれているしかなかった。


 この腕の中だけが、

 今のリンカに残された、唯一の居場所だった。

  どれくらい泣いたのか、分からない。


 嗚咽はいつの間にか声にならなくなり、喉がひくひくと震えるだけになっていた。

 息を吸うたび、胸の奥が焼けるように痛む。


 それでも、身体はまだアリシアから離れようとしなかった。


 抱かれている、というより――

 捕まっている、に近い感覚。


 リンカは、ゆっくりと呼吸を整えながら、指先の感覚を確かめる。

 掴んでいたはずの聖衣は、いつの間にか緩んでいた。


「……ごめん」


 ようやく出てきた言葉は、それだった。

 アリシアの胸元に額を預けたまま、リンカは呟く。


「こんなの……勇者じゃ、ないよね」


 自嘲するつもりだった。

 でも、声はかすれて、弱々しくて。


 アリシアはすぐには、答えなかった。


 しばらくしてリンカの髪に触れる。

 撫でる、というより整えるような動き。


「……勇者様、ですよ」


 その声は変わらず柔らかい。


「どれだけ泣いていても、後悔していても、

 それでも、貴方は勇者様なのです」


 リンカはわずかに肩を震わせた。


「……そんなの……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


 違う。

 否定したいのに、否定できない。


 勇者であることを、捨てられない。

 捨てた瞬間、すべてが無意味になる気がしたから。


「……私、さ」


 リンカは、小さく息を吸った。


「今日、遺された人たちに会って……

 ちゃんと、伝えれた」


 名誉の戦死。

 勇者を守った。

 誇らしい最期。


 全部、正しい言葉だ。


「でもね……」


 喉が詰まる。


「誰も……私を責めなかった」


 それが、いちばん苦しかった。


 怒鳴られた方が、殴られた方が、まだ楽だった。

 感謝されて、頭を下げられて、

 「ありがとう」と言われるたびに逃げ場がなくなっていく。


「……リンカ様」


 アリシアの声が、少しだけ低くなる。


「それは……貴方が、正しいからですよ」


 リンカはゆっくりと顔を上げた。


 涙で滲んだ視界の中で、アリシアの顔はぼんやりとしか見えない。

 それでも、笑っているのは分かった。


 優しく。

 慈しむように。


「正しい選択をした人を、誰が責められるでしょう」


 その言葉が、胸に落ちる。


 正しい。

 正しかった。

 だから、否定されない。


 だから――

 ずっと背負わされる。


「……やだ」


 小さく、リンカは言った。


「……もう、やだよ……」


 子どものような声だった。


 アリシアの腕が、また少しだけ強くなる。

 逃がさない、というより、許さない力。


「大丈夫です」


 囁くように。


わたくしがいますから」


 リンカはその言葉に縋るように、再び顔を埋めた。


 ――ずっとここにいたい。

 ――もう、休みたい。


 アリシアはリンカの髪に顔を埋めることはしなかった。

 代わりにゆっくりと瞬きをする。


 胸の中で壊れていく存在を、確かめるように。


 夜はまだ長い。


 そしてこの夜が終わっても、

 勇者の役割は、終わらない。


 リンカはまだ知らない。


 この腕の温もりが、

 やがて「選択」を歪めるものになることを。


 ――そしてその先で、

 「勇者様の手」で、何をさせられるのかを。


 静かな夜の中、

 祝福の重さだけが、確かに積み重なっていった。

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