第3話
翌朝、私は監視カメラの電源を入れた。
何も映っていないことを、もう一度確認するつもりだった。
それで安心できるはずだった。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
照明をすべて点けたまま、ソファで浅い眠りを繰り返しただけだ。それでも、朝は来る。
画面には、いつもと変わらない部屋が映っていた。
廊下も、リビングも、玄関も。
何も起きていない。誰もいない。
――それなのに。
私はデータ容量を見て、眉をひそめた。
一晩分の映像にしては、明らかに重い。
録画時間は正常だ。
ファイルも分割されていない。
なのに、容量だけが合わない。
何も起きていないはずの数時間が、とんでもないデータ容量になっている。
まるで、空っぽの箱を持ち上げた瞬間に、中身が岩のように重かったときのような違和感。
この静かな映像の裏側で、何かが狂ったように動き続けていたのだと、数字だけが冷酷に示していた。
私は椅子に腰を下ろし、再生を始めた。
通常速度。
何も起きていない。
早送り。
巻き戻し。
もう一度。
それでも、画面は静かだった。
私はスロー再生に切り替え、さらにコマ送りにした。
一秒を、何十にも分ける。
その時だった。
一瞬だけ、画面が揺れた。
ノイズ、と呼ぶには、妙だった。
砂嵐でも、映像の乱れでもない。
まるで、画面そのものが息をついたみたいに、わずかに歪んだ。
私は手を止め、そこを何度も再生した。
揺れの中心に、何かがある。
それは、私だった。
リビングに立つ自分の姿が、その一瞬だけ、ぼやけている。
輪郭が曖昧で、曇りに包まれたみたいに、境界が溶けている。
次のコマでは、私は少しだけ位置が違っていた。
瞬間移動、という感じじゃない。
むしろ、映像の中から一部が抜け落ちた、そんな印象だった。
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
カメラは、何も捉えていない。
でも、私だけが、欠けている。
洗面所に向かい、手袋を外した。
指先が、わずかに痺れている。
蛇口をひねり、水を出す。
いつものように、手を洗おうとして――
鏡を見て、動きが止まった。
映っているのは、私の手のはずだった。
でも、一瞬だけ。
指の形が、違って見えた。
節くれ立ち、見覚えのない傷跡がある、無遠慮な誰かの手。
それが私の手首の先から生えていて、鏡の向こうで私の目を見返している。
慌てて視線を落とすと、そこにあるのはいつもの自分の指先だった。けれど、触れたはずの蛇口には、べっとりと『他人の執着』のような曇りが残っていた。
――今のは、何。
指先の感覚が、鈍い。
自分の手なのに、距離がある。
私は、ゆっくりと玄関へ向かった。
ドアノブの前に立つ。
曇りは、そこにある。
触れることを拒む、あの質感。
私は深く息を吸い、手袋を外したまま、右手を伸ばした。
そして、自分の意思で、ドアノブに指を押し当てる。
冷たい金属の感触。
何も起きない。
指を離す。
その場には、何も残っていない。
――やっぱり。
私の指紋は、見えない。
それを確かめて、少しだけ安心しかけた、その数分後だった。
視界の端で、何かが滲む。
ドアノブに、曇りが浮かび上がってくる。
さっき、私が触れた、まったく同じ場所に。
追いかけてくるみたいに。
なぞるように。
あとから、貼り付く。
私はその場に立ち尽くした。
自分で触れたはずなのに。
自分の意思で、触れたはずなのに。
それは、私のものとして、残らない。
頭の奥で、何かが噛み合い始める。
私は今まで、自分の指紋が見えないことを、当たり前だと思ってきた。
でも、それは「見えない」のではない。
脳が、それを“自分”だと認識しているから、見えていないだけだ。
鏡を見て、自分の顔を自分だと認識するように、脳は自分の指紋を自動的に『景色』として処理していたのだ。
なのに、今、目の前にあるのは、私の脳が拒絶した、私の痕跡。
私の指先が、私という持ち主を裏切り、勝手に『他人』の顔をして、この世界に指紋を刻み始めている。
私は鏡の前に立ち、自分の手を見る。
震えている。
感覚が、薄い。
ひとつの仮説が、静かに形を取る。
私の身体の一部が、私から外れ始めている。
指。
動作。
癖。
それらが、少しずつ「私」ではなくなっている。
だから、曇りとして残る。
だから、準備の痕になる。
それは、侵入者じゃない。
外から来たものでもない。
私の中から、他人になったものだ。
許可が、失われている。
この身体を、私として使うための、見えない許可が。
私はゆっくりと、手を握りしめた。
感覚が、遅れてついてくる。
境界線が、見えなくなりつつある。
私と、私でないものの。
そして、それはもう、この部屋だけの問題じゃなかった。
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