第2話
最初に気づいたのは、匂いでも音でもなかった。
濁りだ。
目を覚ました瞬間、胸の奥に、薄い膜が張ったような感覚があった。息はできるのに、深く吸い込めない。空気が汚れているわけじゃない。
ただ、いつもより抵抗がある。
私は天井を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
昨夜は確かに、安心して眠った。
ドアノブも、鍵も、曇りはなかった。
――気のせいだ。
そう思いながら、身体を起こす。
足を床につけた瞬間、ぞわりとした。
冷たさではない。
理由のない、嫌な予感だ。
私は靴下を履き、無意識にスリッパを探した。素足で床に触れたくなかった。なぜかは分からない。ただ、触れてはいけない気がした。
カーテンを開ける。
朝の光が差し込み、部屋はいつも通りだった。家具の位置も、物の配置も、変わっていない。散らかってもいないし、壊された形跡もない。
それなのに。
私は、玄関を見た。
ドアノブに、曇りがあった。
一瞬、目が理解を拒んだ。焦点が合わない。まばたきをする。
消えない。
薄く、しかし確実にそこにある。
これまで見てきたどの指紋とも違う質感。乱暴でも、ためらいでもない。
もっと、深い。
触れることそのものを拒む感情。
私は一歩、後ずさった。
鍵は閉まっている。
チェーンも、そのままだ。
侵入された形跡はない。
ここは、私しか知らないはずの場所だ。
なのに。
曇りは、内側についている。
外から触れたものじゃない。
この部屋の中にいた誰かが、内側から触れた痕だ。
声に出そうとして、やめた。
空気が揺れたら、何かが返事をしそうだった。
私は部屋の中を確かめた。
窓も、ベランダも、浴室も、洗面所も、トイレも。
人が隠れられる場所はすべて確認した。
誰もいない。
それでも、漂う濁りだけが、消えなかった。
私は、監視カメラを設置することにした。
以前、隣人の物音が気になって買ったまま、クローゼットに放り込んでいた小型カメラを引っ張り出した。
この『見えない侵入者』を見える形で否定して視覚的に殺したかった。
小型のカメラを、玄関とリビングに向ける。
配線を整えながら、何度もドアノブを見てしまう。
曇りは、そこにある。
消えもしないし、広がりもしない。
まるで、待っているみたいだった。
その日は仕事を休んだ。
外に出る気になれなかったし、誰かと話せる状態でもなかった。
昼過ぎ、喉の渇きに促されて、ようやくキッチンに立つ。
冷蔵庫を開け、牛乳を取り出す。
その時、私は見てしまった。
キッチンからの動線の先。洗面台の脇に置いたままの、使い捨てのカミソリに、曇りがある。
持ち手ではない。
刃の、付け根。
もしそこに指を添えれば、刃の角度は必然的に、自分の肌へと深く食い込むことになる。
その曇りは、まるでこれから起こる惨劇の設計図のように、冷たくそこに定着していた。
背中を、冷たいものが走った。
私は、そんなふうに使ったことは無い。
なのに、その曇りは――
まるで次の動作を知っているみたいに、そこにあった。
私は後ずさり、壁に背中をつけた。
心臓の音が、うるさい。
――昨日、ここに置いたときは、なかった。
確かめるように洗面台の周囲を見る。
引き出し。
開けていないはずの引き出しの内側に、曇りがある。
指をかける前提の位置。
力を入れる前提の配置。
声が出かけて、歯を食いしばった。
幽霊、という考えは浮かばなかった。
そんな曖昧なものより、もっと生々しい違和感があった。
ここにいる何かは、この部屋の使い方を知っている。
私の生活を。
私の動線を。
私の癖を。
監視カメラの映像を確認する。
誰も映っていない。
廊下も、リビングも、静止画みたいだ。
時間だけが進んでいく。
早送り。
巻き戻し。
もう一度。
何も起きていない。
それなのに、曇りは増えている。
私はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
汚された、と思った。
荒らされた、でもない。
壊された、でもない。
汚染された。
この部屋は、私が世界から逃げ込むための最後の場所だった。
無色透明で、誰の感情も混じらない場所。
そこに、拒絶がある。
しかも、それは外から持ち込まれたものじゃない。
内側から、染み出してきている。
私は除菌シートを取り出した。
ドアノブを拭く。
カミソリを拭く。
引き出しの縁を、何度も。
一度は消える。
けれど、数分後、同じ場所に、同じ形で浮かび上がる。
まるで、そこにあるべきだと主張するみたいに。
私は一日中、拭き続けた。
消して、また現れる曇りを追いかけて。
おかしい。
私の指紋は見えないはずだ。それなら、この曇りは絶対に私のものではない。けれど、この部屋には私しかいない。
それなのにまるで、壁の裏側に潜んでいる何かが、私が目を離した隙に、鏡合わせのように私の動作をなぞっているみたいだ。
部屋はきれいなはずなのに、私はどんどん追い詰められていった。
夕方、窓の外が暗くなり始めた頃、私は気づいた。
曇りがある場所は、すべて――
これから何かをするための場所だ。
触れた痕じゃない。
準備の痕だ。
その理解が、私の中で、静かに何かを壊した。
ここにいるのは、侵入者じゃない。
この部屋を壊そうとしているのは、私をよく知っている何かだ。
私は夜になる前に、すべての照明をつけた。
暗くなるのが、怖かった。
それでも、曇りは、消えなかった。
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