曇りなき聖域
未人(みと)
第1話
私には、指紋が見える。
それは刑事ドラマみたいに、黒い粉を振りかけたら浮かび上がるものじゃない。ましてや、未来の鑑識みたいに虹色に光るわけでもない。もっと、ずっと地味で、たちが悪い。
触れた場所に残る、薄い曇り。
ガラスに息を吐いたあと、しばらく消えずに残る膜に似ている。けれど呼気と違って、拭き取ろうとすればするほど、輪郭だけが妙に際立った。
見えるのは、他人の指紋だけだった。
ドアノブ。
エレベーターのボタン。
スーパーのカゴの取っ手。
電車の吊り革。
私はそこに、触れた人の「手」を見ているのではない。手の形でも、指の長さでもない。もっと厄介なもの――触れたときの気持ちを見てしまう。
急いでいる人の指紋は、薄く擦れている。
苛立っている人の指紋は、濃くて乱暴だ。
なにかにためらっている人の指紋は、妙に粘つく。
最初にそれに気づいたのは、小学生の頃だった。図書室の机の端に、丸い曇りがいくつも重なっていて、私はそれを「誰かが泣いた跡」だと思った。先生に言ったら笑われた。泣いた跡なんてあるわけがない、と。
それから私は、人に言うのをやめた。
見えるものは、見えないことにする。
気づかなければ、世界は普通のままだ。
けれど、気づいたものは消えない。
私はいつの間にか、触れなくなった。
正確には、触れる前に「見て」しまうから、触れられなくなった。
ドアノブを掴む前に、誰かの焦りがべったり貼り付いているのが見える。
エレベーターのボタンを押す前に、苛立ちが指先にまとわりつく。
吊り革の上には、疲れと諦めが何層にも重なっている。
――こういうのを、潔癖症って言うのだろうか。
医者に言われたわけではない。けれど、周囲は私をそう呼びたがる。
「気にしすぎ」
「手、荒れちゃうよ」
「そんなに拭かなくても大丈夫だって」
大丈夫じゃない。
汚いからじゃない。
知らない誰かの人生が、そこにあるからだ。
その日、私はスーパーに寄った。
仕事帰りのスーパーは、やたらと眩しい。蛍光灯の下で並ぶ野菜も肉も、健康的な色をしていて、逆に嘘みたいに見える。
人の流れは早い。誰もが何かを選び、何かを諦め、カゴに入れていく。
私は手袋をしていた。薄い、肌色の手袋。
手袋をしていても、そこにある『曇り』が消えるわけじゃない。網膜にはべっとりと他人の体温が映り込む。
それでも、布一枚隔てているという事実だけが、私の正気を繋ぎ止めていた。
直接触れてしまえば、その感情が自分の皮膚にまで移って、内側から侵食されてしまう気がするから。
棚の前で、私は立ち止まった。
いつも買うシリアルの箱が、少しだけ奥に引っ込んでいる。誰かが一度手に取って、戻したのだろう。
箱の角に、曇りが残っていた。
薄い。
でも、しつこい。
「買おうか、やめようか」
その迷いが、そのまま指先に貼り付いている。
触れて離した、その一瞬のためらいが、箱の角にこびりついている。
しかも、ただの迷いじゃない。
迷って、やめた理由まで透けて見える気がした。
――甘いもの、控えなきゃ。
――でも、今日は疲れたし。
――いや、やっぱりやめよう。
――また今度。
私は気持ち悪くなった。
箱一つに、知らない誰かの今日が詰まっている。決断の小さな痕跡が、私の目には大きな声で響いてくる。
私はその箱を避けて、隣の箱を取った。
そっちは、まだ曇りが薄かった。
だけど、レジに向かう途中、結局同じ気持ちになった。
他人が触れたものしか、ここにはない。
誰かの手を経由しないものなんて、どこにもない。
レジの台に商品を置く。
店員が機械的な手つきでバーコードを読み取る。店員が触れた跡は、驚くほど薄く、等間隔だ。
そこには執着も感情もなく、ただ『早く終わらせたい』という記号のような退屈だけが、淡い灰色の霧となって商品に重なっていく。
迷いの残るシリアルの箱も、その退屈に上書きされ、濁っていく。
袋詰め台で、私は自分の手で一つずつ袋に入れる。
その時、ふと考えた。
私はいったい、何から逃げているのだろう。
汚れ?
菌?
違う。
他人の感情だ。
薄いビニール越しでも、曇りは見える。
パッケージに残る迷い。
缶の表面に残る焦り。
冷凍食品の袋に残る苛立ち。
私はそれを持ち帰る。
家に持ち込む。
――聖域に、他人の人生を運び込む。
家の鍵を開けた瞬間、私は息を止めた。
玄関の空気が、外と違う。
静かだ。
透明だ。
部屋に入ると、私は最初に照明をつけない。
暗いまま、靴を脱ぎ、鞄を置く。余計なものに触れないように動きながら、頭の中でチェックリストをなぞる。
ここは私だけの場所。
ここには、私以外の曇りはない。
ここは無色透明だ。
そう思うだけで、肺の奥まで空気が入る。
私は手袋を外し、洗面所で手を洗った。
泡を立て、指の間まで丁寧に。
それは「清潔」のためじゃない。外でまとわりついた曇りを、視界から追い払うための儀式だ。
台所に立ち、買ってきたものを並べる。
曇りが、増える。
でも、まだ耐えられる。
この曇りは、外から持ち込んだものだ。
自分で選んだ。
自分で運んだ。
それなら、まだ――自分の責任だ。
私は冷蔵庫を開け、牛乳を入れた。
扉を閉める。
その時、冷蔵庫に映った自分の顔が、一瞬だけ他人に見えた。
目の下の影。
口角の下がり方。
眉の寄せ方。
知らない誰かが、私の皮を被っているような。
私は首を振って、その考えを追い払った。
疲れているだけだ。
外の曇りにやられているだけだ。
鏡の前に立ち、髪をまとめる。
自分の指が触れたはずの鏡には、何も見えない。
それだけが、救いだった。
自分の指紋は見えない。
自分の曇りは、見えない。
私には感情がないわけじゃない。泣くことも怒ることもある。
なのに、私だけがこの世界に痕跡を残していないような、薄ら寒い空虚さがそこにはあった。
……けれど、それでいい。
この無色透明な空白こそが、私の安らぎなのだから。
その夜、ベッドに入る前、もう一度だけ玄関を見た。
ドアノブは、いつも通りだった。曇りはない。
私は安心して、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ぼんやりと思う。
もし、ここが汚れたら。
もし、ここに「他人」が入り込んだら。
私は、どこに逃げればいいのだろう。
その答えを、私はまだ知らなかった。
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