後編 〈猿の手〉の願い

 脱力した人間というのは実に重たい。久志ひさしは身長こそ一七五センチほどだが、体重は八〇キロを超える筋肉だるまだ。優美子ゆみこさんは……メリハリの利いた素晴らしいプロポーションであるとだけ、それ以外は俺の心にとどめるとする。


 どうにか二人を引きずって、布団の上に寝かしつけた。それだけの作業に、小一時間はかかった。姉弟どちらの体にもうっかりあちこち触れてしまったが、まるで起きる気配がない。すまない優美子さん、不可抗力なんだ――


「姉みたいに頭が良くなりたい」などと久志は言ったが、しかしいったい何が起きたというのだろう――なによりも気になるのは、願いが叶うかどうかよりも、何が代償になるのかのほうだ。


 物語の通りであれば、プラスの願いに対してはマイナスの代償が支払われる。ある種の等価交換が起きるはず。


 小説『猿の手』において、ホワイト氏の息子ハーバートは二〇〇ポンドを得ることを願ってその命を失った。彼の命が家の借金程度の価値しかなかったのか、それとも代償には願いよりもっと大きなものを求められるのか……分からない。


 やはり手がかりは日誌の中にあるのだろうと考えて、俺は徹夜覚悟で古文書みたいな和綴じの本を端から読み漁っていった。


 この家の元住人は、本当に江戸時代から続く旧家であったようだ。日誌の最初の日付は三百年前、江戸時代のちょうど享保年間の頃だ。ここらは当時、上野国こうずけのくにと呼ばれた一帯だ。日誌を残した先祖の家は、藩に仕えた下級武士であるらしい。


 読み解く自信は正直、心もとない。なにしろ大昔の肉筆だ。漢字ばかりの候文、おまけに達筆ときている。表向きは俗信や伝承の研究者だから、古文書自体はそこらの人よりはよほど読み慣れている。とはいえ、緊急を要するこのときに、じっくり古い直筆の日記を読むというのは、骨が折れるし気も焦る。


〈猿の手〉か河童といった怪異に関わる文言が出てはこないかとそれだけを頼りに、日誌を読み進めていった。日は落ち、途中でカップ麺などをすすり、ときおり久志と優美子さんの容体を確かめ、あいかわらず静かな寝息を立てるのを確認して、古い柱時計の鐘の音を数度聞いて夜も更けるころ、俺の頁をめくる手がふと、止まった。


道登どうとう〟という人の名を、目にしたのだ。


 少し目を移すと、〈猿の手〉やら、猿にまつわる怪異の話らしき内容が書かれているのが読み取れた。


「道登って、まさかな……」


 疑うように独り言ちるが、確信はある。俺のご先祖にも縁のある、それは仙人の名だった。歴史の表舞台としては『日本書紀』や『今昔物語集』などにも名を残す飛鳥時代の僧である。しかし俺の知る真の姿は、もっと奇妙奇天烈なものだ。


 俺の研究、秘かなライフワークに関わる人物を古文書に認めて、あやうく松長姉弟のことなどどうでもよくなる心持となってしまった。危ない。この日誌は全部、あとで久志から譲り受けることにしよう。そのためにもまずは、この姉弟がどうなってしまうのか、呪物〈猿の手〉がどんなものなのかを、知らねばならない。


 日誌に書かれたことをかいつまむと、祠に〈猿の手〉を封じたのは、なんと道登本人の手によるものだという。ということは、これが今あるのは人助けの結果だ。


 この家の先祖の家名は白井しらい、日誌の書き手は当時の当主、白井糸郎しらいしろう。何やら親の恨みを晴らすため、どこからか〈猿の手〉を手に入れ、復讐相手である守須源九郎もりすげんくろうなる男を呪い殺したとある。当然、そんなことをすれば報いを受ける。守須亡き後、白井家は次々と不幸に見舞われ、家は断絶の危機、ついには白井自身も危うくなり――とそこへ道登がたまたま現れ救われた……と書かれている。


 なぜ偶然そこに道登一行が現れたか、どう関わったかの詳細までは記されていない。日誌は書いた本人の視点で綴られるのだから、これは仕方がないだろう。


 とにかく、道登の尽力により呪いはいったん鎮まった。しかし、残る願いの成就なしに呪物の力は鎮まらない。そこで道登法師が方術を用いて〈猿の手〉を封印し、祠を建てて代々祀るように申し伝えた――と締めくくられている。


 白井家は細々とだがその後も長らえるも、ついには二十年前に残念ながら絶えてしまい、この家は松長久志の手に渡った。実際は、父親による買い上げだけど――


 つまり、この〈猿の手〉は、三百年あまりの時を過ごしてきたということになるのか……残り二つの願いの力を宿したままで。――いや、違うぞ。さっき久志が一つ願いを行使したじゃないか。二つ目だ。ならばこの呪具には、あと一回願いの力が残されているということになる。


 さて、いったいどうしたものか――うまいこと、呪力を使い切るのが安全な気がするけれど……。



    §


 遅くまで古い日誌を読み解くのに夢中になり、眼精疲労に打ちひしがれた俺はいつの間にか眠っていたらしい。優美子さんの甘い声に呼び覚まされ、たおやかな指先で揺り動かされて目を覚ましたのだが――ん? 優美子さんにしてはなんだかずいぶん、手つきが荒い――


「おはようッス、先輩。寝坊助だなあ、もう朝ッスよ」

「あ、ああ……優美子さんか、おはよう」

「何言ってるんスか、いやだなあ、久志ッスよ、久志」

「は?」


 間違いなく、目を開けた俺の目の前にあるのは、優美子さんだ。少なくとも、優美子さんの形をした何かだった――しかし、確かに何か、纏う雰囲気が違う……。


「なんかおれ、姉ちゃんみたいにって願ったら、姉ちゃんそのものになっちゃったみたいなんス。すごいなあ、おれ、おっぱいついてるし、股には……なんもないや」


 なんてこった。久志の願いはこんな形で成就するのか。だがこいつ、ド阿保のままだぞ。いや待てよ、てことはもしかして――


「おおおおおお、おぎゃーっ!」


 ああ、やっぱりそうなるのか。


 悲鳴という名の雄叫びは、トイレのほうから聞こえてきた。声は久志のものだが、中身は――考えたくもないが、優美子さんなのだろう。いったい何を見て叫んでいるのか、これまた想像したくもないが、察しはつく。


「ちょっと様子を見てくる。久志、いや優美子さん? ああ、ややこしい――とにかくここにいろ」

「えーっ、姉ちゃんが心配ッスよぅ」


 ええい、くねくねするなっ! なよっとして体をよじらせ、久志は言う。優美子さんをけがされたようでぶん殴りたくなるが、体は優美子さんそのものだ。触れることすら恐れ多いというのに、殴るなんてとてもできない。


「いいからおとなしく待っててくれ。今のおまえの、優美子さんの姿を優美子さんに見せてみろ、ショックが倍どころじゃすまなくて、心がもたんぞ」


「まあ、先輩がそう言うならぁ」と、妙に女らしい――いや実際女なのだが――口調でもって、久志はおとなしく座卓に肘をついた。暇そうにして、みかんの籠に手を伸ばしている。妙に順応が早いのは、阿保なおかげなのだろうか。


 トイレの前まで来たけれど、久志の姿はなかった。まだ立てこもっているのかもしれない。扉に顔をくっつけ、耳を澄ました。すんすんとした小さな泣き声が聞こえてくる――どんな恰好をしているのか知らないが、とにかく中にいるらしい。


「あのう、久志……じゃない優美子さん? 大丈夫……じゃないとは思いますが、いったん出てきてもらえませんか。この状況をどうにかできるとは思うので」


 野太いが弱々しい声が返ってきた。


「あああ、もうやだ、私お嫁に行けません……こんな大猿みたいな体に、芋虫みたいなものが……ああんどうしよう、これどうしたら治まるのっ?!」


 ……まいったな、これはアレだ――若い男性であれば誰でも経験する朝の生理現象による肉体変容が起きているのだろう。優美子さんのようなお嬢様にすれば、自分が化け物になったみたいな気分でいるに違いない。鎮める方法はいくつかあるが、それを実践してくれとはとても言えないし……。


「えーと、大丈夫です。心を落ち着ければじきに縮ま――鎮まります。短く鼻から息を吸って、口から大きく吐いてぇ……深呼吸を繰り返してください」


 自信はないが、とりあえず呼吸法を勧めてみた。自律神経のバランスが整えば、理屈としてはこの生理現象の発露は治まるはずだ。素直に聞いてくれたのか、扉越しに、野太い深呼吸の音が聞こえてきた。


「あ、あ……小さく……いえ、なんでもありません。少ししたら、参りますので」


 よし、うまくいったらしい。とりあえず、言われたとおりに待つとするか。



    §


「つまり、残り一回分の〈猿の手〉の力を利用して、私たちの入れ替わりを戻すということですか?」

「簡単に言えば、そうです。ただ、どんな代償が起きるのか――そこが難しいところですね」


 久志姿の優美子さんは座卓に落ち着き、みかんを食べながら俺の話を静かに聞いてくれた。まともな敬語で話をする久志の姿というのは、どうにも違和感がある。それに比べて優美子さんの形をした久志が話すのは、阿保っぽいがゆえに親しさを感じてしまって――まったく、困ったもんだ。


「〈猿の手〉の願いって、三回とも違う人が願う必要があるッスよね。てことは、先輩が願い事を唱えるってことッスか?」


「責任重大ッスねえ」などと言って久志は笑うが、その通り、俺の願いが、願い方がすべてを決めてしまう。願いの叶い方で分かっているのは、「願いは叶うが、歪んだ形で成就し、代償を伴う」ということだ。つまり、本当に叶えたい願いが歪んだ形になればいい。さあここが知恵の絞りどころ――賭けだ。


〈猿の手〉を俺は取り上げた。頭上に掲げて、一息吸う。


「〈猿の手〉よ、我が願いを叶え賜え――己が体を、取り戻せ!」


 締めきった和室に、風が巻いた。目の前が一瞬暗くなり、久志と優美子さんが身を固くして昏倒する――よし、いいぞ。


 仰向けに倒れた姉弟の躰から、黒い塵のようなものが吹きあがり、渦を巻き、俺が掲げた〈猿の手〉目掛けて集まってきた。手を離すと、宙に浮いたままの〈猿の手〉に真っ黒な手首が生え、二の腕が伸び、肩、胸、逆の半身が造られ、首が伸び、腹が膨らみ、尻が、足が……そして、猿の顔が現れて、座卓の上に猿の影を成した闇が現れ――消え去った。



    §


「先輩、なにがどうなって――」と、久志が久志の口で言った。


「戻ってる! わたくし、戻っていますっ」と、優美子さんが瞳に涙を浮かべる。


 どうにか、うまくいった。


〈猿の手〉に体を戻せ――願いの歪みの発露として、久志と優美子さんは元に戻るだろう。この呪いは呪具による自動的なものだ。〈猿の手〉には姉弟の意識が入れ替わっているだなんて、分かるはずもない。


 呪具の力の根源は、手塩にかけて育ててくれた術者に裏切られ、体を奪われ手だけの呪具にされてしまった、猿自身の恨みの力だろう。しかし、本能的に体を欲する〈猿の手〉が自分の体を取り戻そうとしても、ありもしない形を成せるのは影だけだ。最後は呪具もろとも闇に飲まれて、消えてしまう。


 ――とまあ、筋書きはこんなところだったが、旨くいくかは正直半信半疑だった。


「こんなことで願いの呪いが解けるなら、なんで昔の人は試さなかったんスかねえ」


 俺の博打のからくりを聞かされた久志が、当たり前の疑問を口にした。


「なんでも願いが叶うというのなら、そんな誘惑に勝てる人なんていたのかな」


 優美子さんの想像――きっと、そういうことだ。


 三つの願いを歪んだ形で叶えると、〈猿の手〉は再び人の手に渡ってまた別の呪詛を振り撒く。何を思って術者はこんな呪具を仕立てたのかは知らないが、物語の通りに、運命を歪めようとする者を戒めようとしたのだとしても、とんだ迷惑者に違いない。世を拗ねた逆恨みで作り出したと考えるほうが、しっくりとくる。


「さて、一件落着ということで――じゃあ、片付けの続きを始めるとするか」


 正直まだ寝ていたいが、土蔵も母屋もまだまだ片づけるものが残っている。それに思わぬ掘り出し物が――ぬふふふ。


「わたくし、お昼の支度をしてきますね」


 吹き抜ける春風のような足取りで、優美子さんは台所へと小走りに去る。それを見送る久志は、最後のみかんをほおばりながら、ぼそりと言った。


「ねえ先輩、そういえば土蔵の中から変わった日本刀が出てきたんスよねえ」

「おい、まさか今度は妖刀とか言い出すんじゃあないだろうな」

「もともとそれが知りたくて、先輩を呼んだんスよ」


 そう言って、久志はにやりと笑って見せた。


 やれやれ、どうやらこれから、俺の本当の仕事が始まるらしい――


〈了〉

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【カクコン11短編】『それは本当に河童の手ですか』 まさつき @masatsuki

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