第2話

 イオリが目を覚ましたのは、それから数時間が経過していた。保健室のベッドの上で、彼女は体を起き上がらせる。隣には幼馴染のヒデキが座っていた。彼はイオリが目を覚ましたのを確認すると「無理するなよ」と言って、保健室の先生を呼びに行った。イオリは頬に貼られた湿布に触れて、ため息を吐く。体にも包帯がまかれているような感覚があることから、保険医はイオリの体中にある傷の手当などもしたのだろう。どこまでも優しい人のようだ。起き上がったイオリを見た保険医の一言目は「小野さんのお父様は警察署に連れていかれたわ」ということだった。


「刑事さんも傷害事件として扱うか考えているようで、伊藤さんにも会いたいって言っていたわ」


 保険医は水入りのペットボトルを手にすると、それをイオリに渡す。飲みなさい、ということらしい。


「病院に連れていきたかったのだけど、伊藤さんの親御さんが拒否したから。でも、伊藤さん……」


 じっと保険医がイオリのことを見つめる。イオリは彼女が何を言いたいのか、はっきりとわかっていた。家庭内暴力について、言及したいのだろう。しかし、イオリは口をつぐんだ。そして、水をあおるように飲む。口内に傷ができているため、そこがチクチクと痛んだ。


「これは私の家の問題です」


 そうはっきりとイオリが言うと、保険医は目を見開いた。そして、まじまじとイオリの顔を見る。その瞳からは驚きと困惑が読み取れた。イオリは更に水をあおると、ペットボトルを脇にある机の上に置いた。そして、腕を組み「傷害事件と言っても、うちの家では納得しないと思いますよ」と半分自嘲気味に笑って見せた。

 その様に保険医は「でも」と声を出す。


「立派な傷害事件じゃない。民事事件にするかは、伊藤さんのお宅が決めることになるだろうけども」

「多分、うちの家はおおごとにしないと思いますよ」


 イオリは、保険医がこれ以上なにか言わないように目で釘を刺す。そして、脳内をせわしなく動かし始めた。小野ヒトシについては、特に思うところはなかった。モンスターペアレントとかいうやつが自分を殴ったぐらいの気持ちだ。それよりも、彼の背後にいた少女。「たすけて」と口を動かしていたようにも見えた。

 イオリはその姿をどこかで見たような気がしてならなかった。しかし、頭を回転させてもどこで見たのか思い出せない。そうして腕を組んだまま考え込んでいると、保健室の扉が音を立てて開いた。


「ああ、刑事さん」


 保険医の言葉に、イオリも考えるのをやめて、視線を扉の方に向ける。そこには、いかつい体格をした男が上着を持って「あちぃ、あちぃ」と言いながら立っていた。彼の隣には、おとなしそうな女性が一人。彼女はしっかりとスーツを着て、外の暑さなど気にならないかのように涼しい顔をしている。


「伊藤さんなら、目が覚めておりますので」

「ああ。おい、斎藤くん。よろしく頼むよ。俺はここで先生と話をしているから」

「はい」


 斎藤と呼ばれた女性は、カツカツとヒールの音を鳴らしながら、イオリの傍に近づく。そして、それまで空気のような状態になっていたヒデキに「ごめんなさいね。少し、彼女とお話がしてくて」と言った。その言葉に、ヒデキは慌てて席を立つと、保険医の傍へと向かう。斎藤はカーテンを閉めた後、懐から刑事であると示すものを取り出して、それをイオリに見せた。斎藤カオル。それが彼女の名前だった。


「今、話しても大丈夫?」


 おとなしそうな雰囲気をまとっていたが、更に笑みまで浮かべてくる斎藤に、イオリは一瞬戸惑う。そして腕を組むのをやめると「はい」と小さく返事をした。

 斎藤は持っていたカバンからペンとメモ帳を取り出すと、質問をはじめた。


「小野ヒトシさんとの面識は?」

「ないです」

「じゃあ、小野アキコさんの方は?」


 小野アキコ。そう、全ては彼女が持ってきた種なのだ。災いの種。イオリは唇をぎゅうと真一文字にすると「ええ、知ってますよ。部員ですから」と答えた。その答えに、斎藤はメモを書き始める。ペンと紙のこすれる音がその場で静かに響き渡る。


「彼女がおかしくなってしまったと、彼女のお父さんが言っていたんだけども。それはあなたたち、新聞部のせいだと」

「事実無根もいいところです」


 憤慨した様子でイオリが答える。すると斎藤は「でしょうね」と呟いて、更に文字を書いていった。

 いつの間に雨が降り始めたのだろうか。保健室の窓に水滴がついている。イオリは斎藤から視線を逸らして、窓を眺めた。そこには、薄っすらとだが、人のようなものがうつっていた。しかし、イオリは目を閉じる。

 違う、違う。見えてない。私には何も見えない。

 そう自分に言い聞かせると、イオリは目を開けて、斎藤の方を見た。


「伊藤さんのご両親と連絡はとれていて、この事件をおおごとにするつもりはないそうなんだけども。あなた、それでいいの? それに、体にある傷も先生から伺っているわ」


 斎藤はメモ帳から視線をイオリに移す。そうして服の下に隠れているであろう体を見ているようだった。


「DVでしょう? 診断書も医者に頼めば用意してくれるわ」


 斎藤は更に言葉を続ける。


「高校生だからって避難できないわけではないのよ。お祖父さんやお祖母さんはご健在かしら? 親戚の方は?」


 矢継ぎ早に出てくる言葉に、イオリはため息を吐いた。そして、目の前で保護しようと努めてくれる刑事を見やった。

 わかっている。頼れる場所があることも。この家庭が異常なんだってことも。

 イオリはそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。


「私は、私の意思で、あの家にいるんです」

「でも……」


 斎藤が再び何か言いかけたが、イオリは片手で制した。そして小さな声で「私が悪いんです」と呟く。その言葉は斎藤には届かなかった。

 結局、その場で小野ヒトシについては示談で終わるということが告げられた。それがほかならぬ、イオリの両親の意思だったのだ。そうして、斎藤はイオリに名刺を渡して「何かあったら電話してちょうだい」と言って去っていった。


「送るぜ」


 刑事二人がいなくなったころ、ヒデキがイオリに向かって言った。イオリは外を見やる。少しだけ曇っているが、雨はやんでいるようだった。窓から見えていた人影もない。イオリは「ありがとう」とヒデキに礼を言うと、ベッドから起き上がり、上履きを履いた。そうして、ヒデキと共に帰路へとついたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る