第18話 訪れた静寂
二週間の時間は、残酷なまでに静かに流れていきました。
ライオン・ポートから北上した、ケダ近海。 奪還に成功したものの、帝国軍の執念深い反撃によって満身創痍となった大東亜経済広域圏第一艦隊は、再編と修理のために、熱帯特有の湿り気を帯びたケダの港に身を潜めるように停泊し続けていました。
病院船『芙蓉』の個室。
開け放たれた窓の外には、二週間前まで地獄の火に包まれていたはずの海岸線が見えます。
しかし、今はただ、泥混じりの波が穏やかに砂を噛むだけの、静かな異国の風景でした。風に乗って運ばれてくるのは硝煙の匂いではなく、見知らぬ異国の花の香りと潮騒の音だけです。
カイ・イサギはその二週間、勲章も、銀の階級章が輝く少佐の軍服も脱ぎ捨てました。
軍も、カイには一切の指示を出しませんでした。
シムラ中将の厳命により『敵襲以外、カイ少佐とミナの二人だけの時間を最優先とさせよ』とされていたからです。
カイは少佐では無く「一人の男」として、ミナの傍らに居続けました。
ミナの心は、激しい嵐が過ぎ去った後の凪のように、深く静まり返っていました。
右手と右足を同時に失ったという事実は、あまりにも重く、若すぎる彼女の肩を圧し折っていました。
彼女は泣くことも、叫ぶこともせず、ただ一日の大半を、動かない自分の体を見つめて過ごしていたのです。
ある日の夕暮れ。
この地特有の、空が血の色に燃えるような赤い夕陽が、病室の白い壁を残酷なまでに鮮やかに染め抜いていました。
「……ねえ、カイ」
ミナが、窓の外の燃えるような地平線を見つめたまま、枯れ葉が擦れるような小さな声で口を開きました。
「私の右手、どこへ行っちゃったのかな。……ねえ、変なの。あの時、あなたが強く握ってくれた感覚が、今も指の先に残っている気がするのよ。……でもね、こうして反対の手で触ろうとすると、そこには何もない。……虚空を掴むだけなの」
カイは、彼女の隣の使い古されたパイプ椅子に深く腰掛けたまま、膝の上で拳を白くなるほど握りしめました。
「ミナ。……俺、最低な奴だよ。君を守る、もう二度と離さないって誓ったのに。右手まで……奪わせてしまった。俺があの時、もっと早く、あと数秒早く走れていれば……」
「……あなたのせいじゃないわ、カイ。……分かってる。あなたが、あの恐ろしい黒い機体に乗って、私を……そして、この船にいた何千人もの人たちを救ってくれたこと」
ミナはゆっくりと、まるで首を動かすことさえ重労働であるかのように、カイの方へ顔を向けました。
その瞳には、かつてのような無垢な輝きはなく、すべてを受け入れたような、底知れない静寂が宿っていました。
「でもね、カイ。……教えて。こんな私に、これから何ができるの? ピアノを弾いてあなたに聞かせることも、美味しい料理を作って待っていることも、ほつれたあなたの服を繕うことも……何一つ、できなくなっちゃった。……今の私は、ただの『壊れた人形』。あなたの重荷になるだけの、壊れた人形なのよ」
「そんなこと、絶対に言わせない」
カイは弾かれたように立ち上がり、彼女のベッドの横に片膝をつきました。
かつて大和の食堂で、何百人の野卑な視線と歓声の中で誓ったあの時とは違います。今は、傾いた陽射しと、遠くで鳴る波の音だけが、二人の証人でした。
「ミナ。……右手がないなら、俺が君の右手になる。右足がないなら、俺が君のすべてを支える足になる。……君ができないことは、俺がやる。……一生かかっても、俺が君の欠けた部分をすべて埋めてみせる。それが俺の、これからの人生のすべてだ」
カイは震える手で、彼女に残された、透き通るほど白い左手をそっと掬い上げました。
「俺は、英雄になんてなりたくなかった。少佐なんて階級も、アスラという力も本当はいらない。……俺が心から欲しかったのは、君と一緒に平和などこか静かな街へ帰って、何でもない、退屈な毎日を送ることだけだったんだ。それ以外のすべてを捨ててでも、俺は君の隣にいたい」
「カイ……」
「ミナ。改めて……改めて言わせてくれ。……俺と、結婚してください。……俺の人生の半分は、もう君のものだ。……いや、全部君に預ける。……だから、一緒に生きてくれ。……壊れた人形なんて言うな。君は、俺の、たった一人の……世界で一番大切な、俺の光なんだ」
カイの目から溢れた熱い涙が、ミナの左手の甲に一滴、また一滴と落ちて、夕陽に反射して宝石のように輝きました。病室に、痛いほどの沈黙が流れます。
ミナは、自分の指にはまったままの血塗れの銀の指輪を、まるで初めて見る奇跡の欠片のように見つめていました。やがて、彼女の細い肩が、堰を切ったように微かに震え始めました。
「……バカね、カイ。……本当に、どうしようもないバカなんだから」
この時、戦いと喪失によって脆く乾ききっていた二人の心は、確かに音を立てて粉々に砕け散ったのだ。
だが、その瓦礫の中から、絶望すらも燃料とするような、かつてないほど強靭な精神の火が燃え上がる。
壊れたのではない。
二人はこの瞬間、過去の折れた自分を脱ぎ捨て、運命に抗うためへの強い精神を持って生まれ変わったのだ。
彼らの視界は、灰色に見えていた世界がゆっくりと色鮮やかな色をもって甦る。
ミナは、残された左手で、カイの頭を強く、強く引き寄せました。
彼女の胸元に顔を埋めたカイの背中に、ミナの温かい涙が降り注ぎます。
「……嬉しい。……嬉しいよ、カイ。……こんな、半分になってしまった私でもいいなら……。あなたの隣で、あなたの行く末をずっと見守らせて」
ケダの燃えるような赤い夕陽が、重なり合う二人の姿を、壁に一枚の影絵のように浮かび上がらせていました。
右手も右足も、失われたものはあまりに多く、未来は残酷に書き換えられたかもしれません。
けれど、この静かな病室で、魂を削って交わされた約束だけは、神にも、悪魔にも、帝国にも奪えない二人だけの真実の勝利でした。
大和の率いる第一艦隊は、二週間後、故郷、日和極東連邦への帰路に就きます。
「ねえ、カイ」
「……なんだい?」
涙を拭ったミナが、少しだけ落ち着いた声で、けれどどこか真剣な面持ちで尋ねました。
「いろいろ聞いたでしょ? 私が、どうしてあの時助かったのか。……瓦礫の下から、どうやって見つけ出されたのか」
「ああ。聞いたよ。マリアが……マリア・サントス曹長が、艦内放送で全艦に叫んだんだって。シムラ中将も、自分の地位をかけて、君を捜索するよう全兵士に頭を下げた。リーやアニサも、手が焼けるのも構わず、手動で扉をこじ開けて……。みんなが、君を繋ぎ止めてくれたんだ」
「……そうだよ。……みんなが」
ミナは小さく頷き、決意を秘めた瞳で続けました。
「船が出る前に。……みんなに、お礼を言いたいの。私が直に感謝を伝えたい」
「……ああ。俺もだよ、ミナ。俺一人じゃ、君を失っていた」
窓の外、夕陽は沈み夜の帷が下りようとしていました。
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