第17話 繋いだはずの希望

 海面に、死のような静寂が戻った。  

 漆黒の破壊神『アスラ』が巻き上げた巨大な水の壁が収まり、黒く重油で汚れた波が、傷ついた『大和』の艦体に虚しく打ち付けられている。

 カイ・イサギの猛攻により、帝国軍第十三巡洋艦隊は文字通り「消滅」した。

 海域にはもはや原型を留める鉄塊すら残っていない。

 その神懸かり的な――いや、狂気的な戦果のおかげで、大和の被害は中破程度で留まり、沈没の危機は去っていた。


 だが、アスラのハッチを撥ね退け、這い出すように降りてきたカイの瞳に、勝利の光は一片もなかった。  

「ミナ……ミナ、どこだ……!」  

 足元はおぼつかず、煤と返り血でどす黒く汚れた姿のまま、カイは煙の立ち上る艦内を狂ったように走り出した。  

「避けてください、少佐!」

「そこはまだ燃えています!」

 兵士たちの静止を、カイは野獣のような力で振り払う。

 崩落した隔壁を素手で退け、まだ熱を持つ鉄板に爪を剥がされながらも、彼女の名前を叫び続ける。

 その懐には、今もあの、ぬくもりを失った「右手」が収められたままだ。


 崩落した食堂区画。

 負傷した女性士官の搬送作業に当たっていたジョセフが、血相を変えて走ってくるカイを見つけた。

「カイ! 落ち着け、カイッ!!」

「離せ、ジョセフ! ミナが……ミナがまだそこに埋まってるんだ!」

「ミナなら無事だ! 生きてる! さっき病院船『芙蓉』に移送されたんだ!」  

 ジョセフがカイの両肩を掴み、力任せに揺さぶった。

 その瞬間、カイの虚ろな瞳に、一筋の震える光が戻る。

「……生きてる? でも、俺の手には、彼女の右腕が……」

「お前が握ってたのは腕だけだ! マリアが、シムラ中将が、全艦に呼びかけたんだ。みんなで、瓦礫の底から彼女を救い出したんだよ!」


 その場に、リーとアニサが辿り着いた。

 二人とも服はボロボロで、アニサの両手には痛々しい包帯が巻かれている。

「カイ……」  

 アニサの声は震えていた。

 リーがカイの背中に手を置き、静かに、だが重く告げる。

「安心しろ。彼女はまだ死ぬ運命にない。マリアが……あいつが声を枯らして、彼女を死の淵から引き戻したんだ」  

 カイは、崩れ落ちるように膝をついた。

 喉の奥から、嗚咽とも笑いともつかない、乾いた震えが漏れた。


 艦隊の最後尾に位置する病院船芙蓉。  

 艦の一室にある緊急手術室前の廊下は、消毒薬と死の匂いが混ざり合う、沈黙の空間だった。  カイは一晩中、壁に背を預けて座り続けていた。

 その横には、サカモト教官、タケシ、リー、アニサ、ジョセフが寄り添うように立ち尽くしていた。  

 アニサが、火傷の痛みをこらえながら、静かに口を開いた。

「……カイ。あんたが外で戦ってる時、艦橋からマリアの放送が聞こえたわ。あの子の事、知ってる?泣きながら叫んでた。『英雄を守るために、彼女を守れ』って。それを聞いた大和の連中……あんな必死な顔、見たことなかった」  

 リーも眼鏡を拭い、声を低めた。

「シムラ中将が頭を下げたんだ。軍の規則を曲げてまでね。カイ、君は一人で戦ってたんじゃない。僕らも、船も、みんな君に報いたかったんだ」  

 カイは答えなかった。

 ただ、自分の汚れた手を見つめていた。

 自分は救ったのかもしれない。

 仲間も、船も、何千人という命も。

 けれど、『ミナ』は?

 腕まで失ってしまっているミナ。

 『自分の本当に守りたかった人』は、守れていないのでは無いか。

 カイは思考がまとまらず、ただ、己の無力感に苛まれ続けていた。

 十時間を超える手術の後、扉の赤いランプが消えた。  

 執刀医が出てくるなり、一同は弾かれたように詰め寄った。

 医師の顔は、苦渋に満ちていた。

「……一命は、取り留めました」  

 安堵の溜息が漏れる。

 しかし、医師の言葉は続いた。

「ですが、損傷があまりに深く……右腕は肩口から切断せざるを得ませんでした。……申し訳ない。私の力では、これが限界でした」


 カイの耳には、その後の言葉は届かなかった。  無機質な機械音が鳴り響く集中治療室。

 そこには、真っ白なシーツの中で、まるで魂を抜き取られた人形のように横たわるミナがいた。  

 右肩から先は無残なほどに短く、平らになっている。

 かつて、不器用なカイの手を優しく握り、指輪を贈られたあの右腕は、もうこの世界のどこにもない。

「……ああ……。……ああ……」  

 カイは彼女の枕元に膝をついた。  

 守ったはずだった。

 アスラという力を得て、帝国を灰にし、世界を平らげた。

 それなのに、自分が一番守りたかった少女の日常すら、自分は守りきれなかった。

 ミナの左手薬指には、血に汚れ、輝きを失った銀の指輪がはまっていた。  

 右足、そして右手。  

 彼女から奪われていく未来。

 その対価として、自分の肩に乗った「少佐」という階級章の重みが、今は不快だった。

「……ごめん。……ごめんな、ミナ……」  

 カイは、残された彼女の左手を、震える手で包み込んだ。

 自分の熱を、せめて彼女の冷たい肌に分け与えようとするかのように。

「俺が、君の右手になる……。俺が、君のすべてになるから……」


 朝日は、無慈悲に海面を照らし始めた。  

 史上最年少の少佐となった英雄と、その英雄を支えるために自らを削り取った同期たち。  

 彼らが歩むはずだった平穏な未来は、硝煙と鉄の匂いの中で、あまりにも残酷な形へと書き換えられてしまった。

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