第11話 少佐
中将の穏やかな「少佐」という呼びかけ。それが部屋に響くたびに、カイの顔からはスッと血の気が引いていった。彼は自分の肩を、信じられないものを見るように見つめ、椅子の背もたれに深く体を預けて呆然とした声を漏らす。
「……え? ……あの、少佐、って」
カイは、泥とオイルで汚れ、縁がほつれた帝国の階級章――金筋の入った重厚な意匠をまじまじと見つめた。
帝国の階級など、自分を偽るための仮面に過ぎなかった。
だが、母国である大東亜経済広域圏までもが、自分をその「階級」に据えようとしている。
「僕は……僕は、ただの士官候補生なんですが。あの……士官学校でも、まだ学科の単位が足りなくて。操縦実習以外はいつも寝てるって、サカモト教官に怒られていた……ただの、出来の悪い候補生なんです。それが、いきなり少佐だなんて、そんなの、何かの間違いですよ」
そのあまりに等身大で、18歳の「子供」らしい戸惑い。
つい数時間前まで、高度210メートルから物理法則を無視して敵を解体していた「破壊神」と、目の前の慌てふためく少年。
その凄まじいギャップに、シムラ中将をはじめ、サカモト教官とタケシは顔を見合わせ、堰を切ったように吹き出した。
「ははは! 見ろよタケシ。二百機も墜とした化け物が、単位の心配をしてやがる! 貴様、戦場であのアシュラフをパイルバンカーでぶち抜く時も『単位足りるかな』なんて考えてたのか?」
サカモト教官が豪快に笑いながら、カイの頭をくしゃくしゃに撫で回す。
その荒っぽい手の温かさは、アシュラフ大佐が与えていた冷たく計算高い「偽りの特別待遇」とは正反対の、泥臭くも本物の愛情に満ちていた。
「いいか、カイ。お前がやったことは、本来なら大将クラスの勲章ものだ。だが軍部もずる賢くてな、お前を単なる『学生』として扱うと、その手柄をどう評価していいか事務手続きがパンクしちまうんだよ。学生が敵のエースを討ち取ったなんて記録、公文書に残せるか!」
中将も苦笑しながら頷き、身を乗り出した。
「教官の言う通りだ。それに、今の君には『特務少佐』という盾が必要なんだよ、カイ君。君の奪取した『アスラ』は、今の我が国にとって、一機で戦況を覆しかねない戦略兵器だ。それを単なる候補生が動かしているとなれば、官僚たちが黙っていない。君を軍法会議にかけるか、研究施設に隔離するか、どっちかだ。だが、『特務少佐』という階級があれば、君には単独の指揮権と、アスラの機密管理権が与えられる。自由に行動するための、これは君を守るための鎧なんだよ」
「自由に行動するための……鎧……」
「そうだ。少佐でなければ、君をミナ君の側に置くことすら、規則上難しくなるんだ。わかるか?」
タケシも肩をすくめて、少しだけ悔しそうに、けれど誇らしげに笑った。
「そういうこと。俺なんて、士官候補生繰り上げで曹長だぜ? 卒業後は准尉から始まるはずなのに、有事で無理やり現場に放り出されちゃったからな。事務局の連中、『曹長にするにも単位が足りないんだが、実戦経験で補填しよう』なんて頭抱えてたんだぜ。……なあ、同期のお前に最敬礼しなきゃいけないなんて、冗談じゃねえよ。なあ、少佐殿?」
「よしてくれよ、タケシ……。俺、そんなの頼んでない……。曹長だって凄いじゃないか。俺、階級なんて……ただの候補生でよかったのに」
カイは顔を赤くして俯いた。
アシュラフに屈したあの日、帝国の少佐服を着せられた時は、その重みが死装束のように感じられた。
だが今、自分に与えられた「大東亜経済広域圏の少佐」という重みは、自分を信じてくれる人々からの、あまりに重く不器用な期待の塊だった。
「カイ君。君がどれほど戸惑おうと、世界は君を英雄として、そして特務少佐として扱うだろう。だが……安心したまえ。我々は、君を使い潰すつもりはない。国を守り抜いた一人の若者として、最大限の敬意と、そして君の私生活を尊重するつもりだ」
中将はふと、カイの胸ポケットから少しだけ膨らんで見える、硬い感触を指差した。
「……まずは、その階級よりも、単位よりも、もっと切実に渡すべき相手のところへ行ってやったらどうだ? 事務手続きは私がすべて引き受ける。君には今、単位よりも大切なことがあるはずだ」
カイはハッとして、胸ポケットに手を当てた。 そこには、帝国製の軍服には似つかわしくない、粗末で潰れてしまった小さな箱が入っていた。
指先で箱を開けると、戦火の中で少し汚れてしまったが、それでも白銀に優しく光る指輪が入っていた。
収容所での地獄の日々。
アシュラフの影に怯えながら、深夜の暗闇で何度も何度も指先でなぞった、唯一の希望。
今の自分には、特務少佐という巨大な階級の金筋よりも、この小さな、箱が直せないほど歪んでしまった銀の輪の方が、ずっと重く、そして切実だった。
ミナが足を奪われた日、自分は何もできなかった。
だからこそ、この指輪を渡すということは、彼女の失われた足の代わりにはなれなくても、これからの彼女の人生のすべてを、この手で支え抜くという誓いだった。
「……ありがとうございます。……中将、教官。僕……僕、行ってきます。伝えなきゃいけないことが、あるんです」
「ああ。胸を張って行ってこい、カイ。お前は今日、世界で一番誇らしい……そして不器用な少佐だ」
サカモト教官が最後に、ポン、と背中を押した。
カイは帝国の黒い制服のまま、廊下を駆け出した。大東亜経済広域圏の兵士たちが驚いた顔で彼を見るが、今のカイには関係なかった。
自分の階級が少佐であろうと、学生であろうと、そんなことはどうでもいい。
ただ一人の女を、自分の命よりも大切な女の子を二度と離さない。
医務室へと続く白い廊下の先。
窓の外には、マンガニスの粉塵を切り裂いて昇る、かつてよりも力強く、どこまでも明るい朝日が広がっていた。
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