第2話 絶望

 一九八一年、冬。

 日和極東連邦の最南端、南洋州マライカ。

 その北端に位置する軍事要塞港ケダは、潮の香りと、不完全燃焼を起こした「マンガニス」の重く黒い煤煙が混じり合う、金属質な停滞の中にあった。


 1940年代、深海から引き揚げられた黒い鉱石「マンガニス」は、熱力学の常識を塗り替えた。   

 その爆発的な燃焼圧力は、巨大な鋼鉄の塊を二本の足で歩かせ、世界を空から大地へと引き摺り下ろした。  

 空を覆う「ダスト・ベール」の下、街を照らすのは石油の残り香ではない。

 マンガニス内燃機関が吐き出す、暴力的なまでのエネルギーが変転した強い文明の光だった。


「カイ、また居眠りしてたでしょ。術科学校の教本でそんなに寝れる?マンガニスの匂いでも嗅いで目を覚ましたら?」


 呆れたような、しかし戦友に向けるような鋭い視線。  

 ミナ下士官候補生が、バナナの葉に包まれたナシレマの皿を、わざと音を立てて机に置いた。

 彼女の軍服の肩には、連邦陸軍第十四通信大隊の徽章が、琥珀色の夕日に鈍く光っている。


「……悪い。地元の連邦陸軍第十四駐屯地に挨拶に行ったら、旧式シュテルツァーの『気化器(キャブレター)』の調整を押し付けられてさ。

 マンガニスの供給圧力が安定しなくて、結局一晩中スパナを握ってたんだ」


 イサギ・カイ士官候補生は、中央士官学校の制服の襟を緩めながら、力なく笑い返した。  

 彼は本校において、ある種の有名人だった。

 座学の成績は赤点ギリギリ。

 戦史も法規も彼にとっては退屈な文字列に過ぎない。

 だが、ひとたびシュテルツァーのコクピットに座り、無骨なレバーを握れば、教官たちの言葉を借りれば「機体と機械の理が神経に溶け合っている」かのような、野性的かつ精密な機動を見せる。


「甘えないの。エリートの候補生様が、マンガニスの供給圧一つで音を上げるなんて。卒業したら、この街の守備隊で私のオペレーションに従うって約束、忘れてないでしょうね?」


 ミナが少しだけ意地悪く、しかし愛おしそうに笑う。

 彼女の傍らには、最新型の移動無線機と、紙テープを出力する初期型の暗号解読機が置かれていた。

 二人とも、休暇中であっても軍人としての義務からは逃れられない。

 だが、この街に流れる時間は、八洲の厳格な空気とは違っていた。


「ああ、忘れてないさ。俺はこの街でいい。マンガニスの煙に巻かれながら、この穏やかな時間が……ずっと続けばいいと思ってる」


 ミナはカイの「いつものセリフ」にクスクスと笑いながら、自分のナシレマから一番大きな海老をひょいとつまみ、カイの皿に放り投げた。

「ほら、食べなさいよ。痩せちゃって、操縦桿が重く感じるようになっても知らないわよ」

「……お前こそ、少しは休め。通信科の課題、山積みなんだろ」


「ねえ、カイ。卒業したら、やっぱり本国の精鋭部隊に行くの?」


 不意に、ミナが少しだけ視線を落として尋ねた。

 海風に吹かれた彼女の髪が、少しだけカイの頬をかすめる。  

 カイは返事をする代わりに、ポケットの中に手を入れ、冷たい金属の感触を確かめた。

 八州の宝飾店。

 老細工師に、ひと月分の給与を叩いて打たせた白銀に光る指輪。


「いや……実技の評価だけで希望は通るはずだ。俺は、この街の守備隊への配備を具申するつもりだよ。そうすれば、ずっとここにいられるからな」


 まだ、正式に付き合っているわけではない。

 告白の言葉さえ、喉の奥で渋滞している。  

 だが、なんとなく大丈夫だと確信している。

 卒業したら、二人がこの街の軍人として正式に任官したその日に彼女に渡そう。  

 この琥珀色の光が続く限り、二人の未来もまた、マンガニスの火花のように力強く続いていくはずだった。


「はいはい、わかったわ。でも、その『泥臭いシュテルツァー』を一番うまく動かせるのが、あなただってことも知ってるわよ」


 ミナは満足そうに微笑み、二人は冷えかけたコーヒーを飲み干した。

 視線が数秒だけ重なり、言葉にならない熱が、火花が散るような緊張感となって空気に走る。

 幼い頃から、マンガニスの廃ドラム缶を秘密基地にして語り合った夢。  

 カイにとってミナは、守るべき世界の象徴であり、軍に入った唯一の理由だった。

 そしてミナにとって、カイは自分をこの穏やかな日常の中に繋ぎ止めてくれる唯一の光だった。


 広場では、巨大なマンガニス発電機が「ド、ド、ド、ド」と地を這うような重低音を刻み、古い水銀灯に強烈な光を灯している。

 その光の下、引退した老兵たちが、第二次世界大戦でアメリアを退けた「グアミ侵攻作戦」の武勇伝を、強い蒸留酒と共に語り合っていた。


 だが、その平穏は水平線の向こうから響く「物理的な絶望」によって唐突に終わりを告げる。


 夜の闇を裂き、海を割って現れたのは、巨大な強襲揚陸艦の群れだった。  

 波打ち際に乗り上げた瞬間、数千トンの鋼鉄が砂浜を根こそぎ削り取り、マンガニスの燃えカスを含んだ黒い砂が、ケダの街を覆い尽くした。


「帝国の揚陸艦だと……!? 海軍の哨戒艇は何をしていた!」


 カイが叫び、ミナが即座に携行型特別小規模用無線機の受話器を掴む。

 だが、スピーカーから流れてきたのは、猛烈な広帯域ジャミングによる耳を刺すようなハウリング音だけだった。


「ダメ、全チャンネル塞がれてる! カイ、これ、ただの演習じゃない!」


 揚陸艦の巨大な前部扉が、重力に従って「ドォン!」と砂浜に叩きつけられる。  

 中から這い出してきたのは、まさに「鋼鉄の野獣」だった。


 ヴァジュラ・バラ・カノン帝国。  

 世界最強の多脚歩行兵器を擁する帝国が、一度も国交のないこの東方の地へ送り込んだ、重四脚戦車機『ガジャ・Mk-II』。


「帝国の四足歩行兵器……!? なぜだ、不可侵条約はどうなった!」


 先頭の『ガジャ』が、油圧シリンダーの猛々しい咆哮と共に市街地へと踏み出す。  

 一歩。  

 それだけでコンクリートは粉砕され、民家の壁が紙細工のように弾け飛んだ。  

 『ガジャ』の背面に据えられた、手動旋回式の180mm滑腔ライフルが、重厚な金属音を立ててゆっくりと街の中央――二人のいる広場へと向く。


「――装填。撃て」


 轟音。  

 マンガニスの燃焼ガスを噴き上げ、放たれた弾丸が音速を超えて大気を切り裂いた。   

 着弾の衝撃波が、二人が座っていた屋台を跡形もなく吹き飛ばした。  

 ミナは悲鳴を上げる暇もなかった。


「ミナッ!!」


 土煙が晴れた時、カイが見たのは瓦礫の中で血を流すミナの姿だった。  

 かつて共に駆け回った彼女の右脚は、鉄の塊に押し潰され、膝から下が無残に消失していた。

 左脚もまた、剥き出しになった建物の一部である鉄筋が深く貫通し、ブーツの中で不自然な方向に折れ曲がっている。


「あ、……カ、イ……? 暑いの。足が、すごく暑い……」


 ミナは焦点の合わない目で、自分の血で真っ黒に染まった地面を見つめ、震える声で呟いた。  ナシレマの香りは一瞬で消え去り、そこにはマンガニスの煤煙と、焦げたゴム、そして引き裂かれたばかりの肉が焼ける、悍ましい臭いだけが充満していた。


「あああああッ!! 貴様らッ! 許さん……一匹残らず、スクラップにしてやるッ!!」


 カイは血の涙を流し、咆哮した。  

 彼は振り返らずに走った。  

 ポケットの中の銀の指輪を指が折れんばかりに握り締め、波打ち際の整備ドックに、燃料を補給したまま放置されていた――連邦陸軍の汎用人型歩行兵器『ヴァイダ・ST-03 旭風(あさかぜ)』へと。

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