第二話 雨の手作り市と、拍手の行方
商店街のアーケードに朝の光が差し込む。喫茶「てのひら」の臨時売り場は、青いテントの下。晴矢は胸ポケットのカードを指で確かめた。名刺サイズの予定表。紙は小さいのに、心は少し大きい。
段ボールから看板を取り出す。手書きの文字が踊っている。
『てのひら特製 たまごサンド/手でむすぶ塩おにぎり』
その看板には、もう一つの狙いがあった。商店街が毎年やっている「手書き看板コンクール」。通りの各店が自慢の看板を出し、午後に審査員が回ってくる。最優秀賞は、商店街の広報紙の一面に載る。
晴矢にとっては、拍手のかたまりだ。
「いい字」
希が短く言った。褒め言葉が心に沁みて、晴矢の手の汗が引いていく。
「最優秀賞、取りたい」
晴矢が言うと、希は少しだけ目を細めた。
「取れるように、手を守って」
「そこかよ」
タカアキはテントの脚を固定するロープを結んでいた。指が迷わない。昨日までの練習が、今ここで形になる。
「結べた」
「その手、頼もしい」
希が言うと、タカアキは小さく頷いた。彼は派手に喜ばない。派手に崩れない。
央はテーブルの角を撫で、周囲の空気を確かめた。
「人の流れ、まだ緩い。けれど三十分後に膨れる」
「手のひらがセンサーか」
「そうね」
晴矢はスマホを構え、手元の動画を撮ろうとした。指が勝手に動く。承認欲求がまだ根を張っている。
そのとき、希が彼の手首を軽く押さえた。強くはない。止める力より、伝える温度。
「今は、目の前」
その一言の裏側が、晴矢には読めた。「焦らないで」。彼はスマホをポケットへ戻した。
十時。客足が増え始めた。晴矢は笑顔でサンドを渡し、希は会計を回し、タカアキはおにぎりを次々とむすび、央は呼び込みの声をかける代わりに、通りすがりの人へ小さな会釈を配る。央の会釈は不思議と人を引き寄せる。
晴矢は心の中で拍手を数えかけて、やめた。カードに書いた「自然に増やす」を思い出す。
十時半、隣のテントの女性が声をかけてきた。年配で、手袋の上からでも指が太いのが分かる。
「そこの看板、字が威勢いいね。濡らすと滲むよ」
「滲ませません。守ります」
晴矢が胸を張ると、女性は鼻で笑った。
「守るって言う人ほど、守り方が雑」
言い方はきつい。でも、彼女の手はビニールひもを器用に結び、テントの屋根の端に簡単な雨除けを作っていた。言葉の裏側は親切だ。
央が小声で言う。
「今の人、手が優しい。口は硬い」
十一時前、空が暗くなった。アーケードの端から、雨が斜めに入り込む。テントの屋根を叩く音が、急に大きくなる。
「やば、看板!」
晴矢は反射で手書き看板を抱えた。濡れると墨が滲む。彼の「手書き」が、雨に弱い。
晴矢が看板を守ろうと体をかぶせた瞬間、風でテントが揺れた。看板の角が彼の頬に当たり、墨がぺたり。まるで黒いひげ。
希が吹き出した。
「晴矢、顔……」
「笑うな! 今、危機管理中!」
「危機管理できてないから、ひげができてる」
タカアキまで肩を震わせた。央は笑いながらも、手早くビニールシートを広げる。
「手を動かして、笑いも動かす。いい流れ」
しかし雨は強く、通りの人が減った。晴矢の胸の奥がざわつく。最優秀賞も、売り上げも、頭の中で絡まる。
「審査員、午後に来るんだよな……この看板、終わった……」
滲んだ文字は読めるけれど、迫力が半分になっていた。晴矢の顔から、ひげが落ちても焦りが落ちない。
希が手袋を外し、素手で晴矢の手を握った。冷たい指先。
「焦りは手に出る。今、出てる」
「出てるのは雨だ」
「雨も焦りも、止められない。でも、手は温められる」
希の言葉の裏側に、「一緒に持つ」があった。晴矢は自分の手を少しだけ緩めた。
そのとき、昨日の小学生の男の子が母親と一緒に現れた。男の子は晴矢を見て立ち止まり、両手を胸の前で小さく振った。
希が微笑む。
「来てくれたんだ」
男の子は声の代わりに、手で「ありがとう」を形にした。タカアキがそれを見て、目を丸くした。
「それ……手話?」
男の子が頷く。タカアキは胸の前でぎこちなく同じ形を作った。昨日、店で希が教えた簡単な挨拶。指が少し震える。
男の子の顔がぱっと明るくなった。母親が驚いて口元を押さえる。
「この子、外で手話を返してもらうの、久しぶりで……」
晴矢の胸が熱くなった。言葉の裏側の「救われた」が、母親の目に浮かぶ。
央はそっと紙コップを差し出した。中は温かい生姜湯。
「手を温めてから食べて。あたたかさは心に届く」
男の子は両手でコップを包み、ふうっと息を吹きかけた。その仕草が、拍手より静かで、深い。
雨で客足が減った分、手が空く時間ができた。晴矢は滲んだ看板を見つめ、唇を噛む。
「……作り直したい。でも紙が」
「紙ならある」
隣の年配の女性が、厚紙を二枚差し出した。
「ほら。さっき言ったろ。守り方が雑だって」
「……ありがとうございます」
「礼を言う時は、手を止めない」
女性は自分のテントへ戻り、また無言で作業を続けた。言葉の裏側は、最後まで親切だった。
希がマーカーを握る。
「時間がない。晴矢、文字。私は枠。タカアキ、汚れを拭く。央、乾く場所を作って」
晴矢は一瞬、躊躇した。最優秀賞の看板を、自分の手だけで仕上げたい気持ちが残っていた。
その迷いを、希が見抜く。目が、優しく厳しい。
「最優秀賞って、晴矢一人の賞じゃない。ここは四人の売り場」
言葉の裏側が、まっすぐ刺さった。晴矢は頷き、太い筆ペンを握った。
作り直しは、うまくいかなかった。焦って線が曲がる。墨が手につく。ひげが復活しかける。
「だめだ、俺、手が震える」
晴矢が言うと、央がそっと彼の手の甲に自分の手を重ねた。
「震えは悪者じゃない。今の震えは、本気の震え」
央の手は不思議と落ち着く。晴矢の指が、少しずつ安定した。
タカアキが提案した。
「文字だけじゃなく、手を入れよう。手がテーマなんだろ」
「手を入れる?」
希が机の上のコーヒーの粉を見た。
「スタンプにする。手のひらに粉を少しつけて、外枠に手形を押す」
「汚れない?」
「汚れる。だから、面白い」
希が珍しく冗談を言った。晴矢は笑ってしまい、震えが軽くなった。
四人は手のひらに薄く粉をつけ、厚紙の周りに手形を押した。晴矢の手形は大きく、希の手形は指が長い。タカアキの手形は少し歪んで、それでも真面目。央の手形は軽くて、余白が美しい。
そこへ男の子が近づき、母親の許可を”見て”から小さな手を押した。小さな手形が一つ増えた。
晴矢の胸が熱くなった。手形は、言葉の裏側をそのまま残す。
午後一時。審査員が回ってきた。背広の男性が、雨除けの下で新しい看板を見上げる。
手形の輪に囲まれた文字は、朝より少し不格好だ。でも温かい。
「……面白い。誰が考えた?」
晴矢が一歩前へ出かけて、止まった。ここで「俺です」と言えば、拍手が増える。けれど手形の数が、彼の足を止めた。
「ここにいる手、全員です」
晴矢は言った。声が少し震えた。審査員は小さく頷く。
「協力って、字より伝わるな」
審査員の言葉は淡々としていた。けれど裏側に「好きだ」が滲んでいる気がした。
片づけの時間、商店街の放送が流れた。
『手書き看板コンクール、最優秀賞は……喫茶「てのひら」!』
晴矢は一瞬、息が止まった。次に、笑いがこみ上げた。拍手が周囲から起きる。彼は数えなかった。
希が手を差し出す。央も、タカアキも差し出す。男の子も、小さな手を出した。六つの手のひらが重なった。墨の匂い、コーヒーの匂い、雨の匂い、全部が混ざる。
「今日の拍手は?」
晴矢が言うと、希が答えた。
「ここにある」
手の重さが、そのまま返事だった。言葉の裏側を、手が押し上げてくる。
表彰の紙を受け取っても、晴矢はすぐに自分の胸へしまわなかった。まず、隣の年配の女性のテントへ走る。
「厚紙、助かりました!」
女性は手を止めずに言った。
「だから、礼は手を止めるなって」
「じゃあ……手を止めずに言います。あなたの雨除けも、最高でした」
女性は一瞬だけ顔を上げ、口元を曲げた。笑ったのか、しかめたのか分からない。
「そういう褒め方、嫌いじゃない」
それが精一杯の祝福だと、晴矢には分かった。言葉の裏側が、湯気みたいにあたたかい。
テントに戻ると、希の指先が赤くなっているのが見えた。雨の中で、何度も拭いて、何度も描いた手だ。
「希、手……」
「大丈夫」
希はいつもの短い返事をした。けれど晴矢は、昨日より少しだけ読めた。大丈夫の裏側は「疲れた」だ。
晴矢は自分のポケットから絆創膏を取り出し、希の指にそっと貼った。
「大丈夫って言う手ほど、守らないと」
希は目を瞬かせて、笑った。
「晴矢、今日の言い方、上手い」
その瞬間、タカアキが指で晴矢の頬を指した。
「ひげ、まだ残ってる」
「え、うそ」
男の子が小さな指で、そっと晴矢の頬を拭いた。指先が触れた瞬間、晴矢は変な声を出した。
「くすぐった!」
周りが笑い、最後に央が静かに言った。
「笑いは、最優秀賞の副賞」
帰り道、晴矢のポケットのカードは少し湿っていた。それでも文字は読めた。彼は手のひらでカードを押さえ、温度で乾かした。
手の中にある予定と、手の上にある仲間。晴矢はその両方を、しっかり掴んで歩いた。
手のひらサイズの理想 mynameis愛 @mynameisai
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