手のひらサイズの理想

mynameis愛

第一話 理想の予定表は手のひらサイズ

 晴矢は朝から両手をこすり合わせていた。冷えたわけではない。指先の血が早足で流れている気がした。今日、彼の「得意」が店じゅうに広がる日だ。

 市民会館の一階にある喫茶「てのひら」。ガラス戸を開けると、コーヒー豆の香りと一緒に、紙の匂いがふわりと飛び込んだ。カウンターの上に、巨大な模造紙。赤青緑のマーカー。付箋は全部、手の形に切り抜いてある。


 見出しは太字でこう書かれていた。


「これが理想! 一日のスケジュールを立ててみた。」


 晴矢はその文字を撫でた。撫でる手つきが、少しだけ自慢げだ。

「これで今日の店は回る。回して、回して、回し切って、拍手まで回収する」

 彼の頭の中では、すでに常連客が「晴矢くん、今日も完璧」と言い、スマホ画面のハートが増えていく。


 希が出勤してすぐ、その模造紙に目を落として眉を上げた。

「七時四十五分……『開店前の握手練習、三十回』?」

「挨拶の握手は基本。手は名刺より早いんだよ」

 晴矢は胸を張り、ぴしっと手を差し出した。希は反射で握り返す。握力が強い。褒めてほしい圧が手に乗っている。

「八時ちょうど、『ラテアートで拍手をもらう』……拍手、予定に入れるんだ」

「拍手は目標だ。数値化できる。今日は十回。成功ラインは二十回」

「……成功ライン、勝手に上げてる」

 希の口角が揺れた。笑うと呆れるの境目の表情だ。晴矢はその揺れを「称賛の前触れ」と解釈した。


 彼は手の形の付箋を一枚、希の胸元の名札に貼ろうとした。

「ここに、今日の役割。『希=共感担当』」

「いらない。私はいつも通り、注文と仕込み」

「いやいや、共感が店の売りだろ」

「売りにしない」

 希は付箋をそっと剥がして、模造紙の端に戻した。その動きが丁寧で、指先が優しい。晴矢はそこに、言葉の裏側の「照れ」を見たつもりになった。


 そこへタカアキが入ってきた。エプロンのひもを首の後ろで結べず、腕をぐるぐる回している。

「また背中が届かない……」

「貸して。手、貸して」

 希がひもを結ぶ。タカアキは悔しそうに唇を尖らせた。

「自分でできるようになる。今日こそ」

「その意気。弱点は、指先から直せる」

 晴矢が言うと、タカアキは頷いた。彼はいつも、一度決めた練習を毎日続ける。地味だが強い。


 最後に央が静かに入店した。彼女は空気の温度を手で探るように、そっとカウンターを撫でた。

「……緊張、強いね。晴矢の手が熱い」

「熱いのは情熱!」

「情熱と承認欲求は、手の汗で見分けがつくよ」

 央がさらりと言うと、晴矢は思わず自分の手のひらを見た。確かにうっすら汗ばんでいる。見抜かれた気がして、さらに汗が増えた。


 希が巨大な予定表を指でトントン叩く。

「ねえ、ここ。『十時二十分 おにぎり百個、手で成形』。百個はできるけど……十時四十分、『手洗い三十秒』って遅くない?」

「手洗いは最後にまとめると効率が」

「効率より安全。あと、十一時の『手元動画を投稿、いいね百』も、目標が高すぎる」

「高い目標は人を伸ばす」

「伸びるのは、晴矢のため息だけ」

 希が言い切った。口調はいつもより硬い。晴矢は言い返しかけて止まった。希の目が、真剣だった。言葉の裏側に「心配」が見える。いや、見えてほしいのかもしれない。


 晴矢は肩をすくめるふりをして、付箋を一枚追加した。

「十二時十分 休憩。手を温める」

「いいね」

 央が小さく拍手をした。晴矢はすかさず予定表の「拍手」欄に正の字を一つ足した。

「拍手、今ので一回?」

「今のは、空気が軽くなった拍手。音が小さくても効く」


 開店準備が進む。晴矢はラテの試作をしながら、手首の角度を鏡で確認した。ミルクを注ぐ手が、弧を描く。ハートができる。彼は自分の強みを最大限に使うのが上手い。

 希は仕込み台で野菜を切り、タカアキはレジ横の小銭を整え、央は店内の椅子を一脚ずつ拭く。四人の手が、それぞれ違う速度で動いている。


 八時五分。第一号の客は、地元の小学生の男の子だった。ランドセルを背負ったまま、入口で固まる。

 希がしゃがんで目線を合わせた。

「おはよう。朝ごはん?」

 男の子は頷いたが、声が出ない。代わりに両手を胸の前でひらひらさせた。

 晴矢がすかさず前に出る。

「握手する? 握手は勇気が出る」

 男の子は引きつった顔で後ずさりした。希が晴矢の袖をつまんで止める。

「その子、手が違う意味を言ってる」

 希の目が、男の子の指先に向いた。人差し指と親指が、ぎゅっと握られて白い。緊張している手だ。

「紙とペン、ある?」

 希が差し出すと、男の子はほっとして、カウンターに「たまごサンド」と書いた。字が震えている。


 晴矢は顔が熱くなった。自分の手は早すぎた。希の手は、相手の速度に合わせていた。

「……俺、言葉の裏側を読むの得意だと思ってた」

「得意なのは、手を動かすこと。読むのは、これから」

 希は男の子の注文を受け取りながら、晴矢に小さく笑った。その笑いの裏側は、責めではなく励ましだった。


 昼前。常連の老夫婦が来店した。晴矢は予定表の通り、完璧な角度でお辞儀し、完璧な笑顔で手を差し出した。

「おはようございます!」

 夫婦は目を丸くした。

「あら、今日は握手会の日だったかい?」

「違います! 喫茶です!」

 希が即座にフォローし、晴矢の手をそっと下ろした。夫婦は笑い、席につく。

 晴矢は耳まで赤くした。

「……今の、拍手は?」

「笑ってくれたから、心の中で拍手」

 希が囁くと、晴矢はこっそり正の字をもう一つ足した。予定表は、少しずつ彼の妄想よりも現実に寄っていく。


 午後。タカアキが休憩中に、エプロンのひもを練習していた。椅子の背に向かって、何度も結んではほどく。指が赤くなる。

「痛くない?」

 希が聞くと、タカアキは首を振った。

「痛い方が覚える。」

 晴矢はその言葉に、珍しく黙った。自分の承認欲求は、痛みから逃げるための飾りかもしれないと思った。


 閉店前、タカアキがついにエプロンのひもを自力で結べた。鏡を見ずに、指先だけで。

「できた!」

 晴矢が思わず両手を上げると、央がその手をぱちんと軽く叩いた。ハイタッチだ。

「今の音、店の空気が明るくなった」

 希も笑って手を差し出す。タカアキは照れながら、三人と順番にハイタッチをした。


 晴矢はその瞬間に気づいた。自分が欲しかったのは、画面の「いいね」だけではない。手と手が触れる、小さな承認だった。

 予定表の見出しを見上げる。『理想』は紙の上では固い。けれど、手のひらは温度で変わる。

 彼はペンを置き、希に向かって言った。

「明日、予定表……手のひらサイズにしていい?」

「うん。必要な予定だけ、ちゃんと掴める大きさにしよう」

 希の返事は短い。でも、その裏側があたたかい。晴矢は自分の手の汗を、初めて少し誇らしく思った。


 片づけが終わると、央が小さな箱を取り出した。中には指先サイズの絆創膏が整然と並んでいる。

「明後日、商店街の手作り市。手を酷使する日になる。今から守る」

「手作り市……そうだ、予定表に『当日の流れ』も追加だ!」

 晴矢がまた模造紙を引っ張り出そうとすると、希が両手で止めた。

「今日は、これ以上紙を広げない」

「俺の理想が」

「理想は折りたたむ。持ち歩ける形にする」

 希は引き出しから名刺サイズのカードを四枚出し、晴矢の手のひらに重ねた。

「この大きさ。これなら、手の中に収まる」


 晴矢はカードを見つめた。白い余白が広い。余白は評価されない気がして落ち着かない。

「これ、全部書けない」

「全部書かない。必要だけ」

 希はペンを渡し、最初の一行だけ書いた。

『開店前 深呼吸 三回』

「それ、手じゃない」

「深呼吸すると、手の汗が減る」

 央が頷く。タカアキも真似して深呼吸をした。晴矢は抵抗しつつも息を吸った。確かに、指先の熱が落ち着く。


 タカアキは二枚目のカードに、丁寧な字で書いた。

『結ぶ練習 五分』

「当日もやるの?」

「できるまでやる。焦りを減らす」

 央は三枚目に書いた。

『手のひらを温める 十五秒』

「短い」

「短い方が続く。手は短い接触で安心する」

 希は最後のカードに、晴矢を見ながら書いた。

『言葉の裏側を見よう。手を見る。』

 晴矢の胸が、またきゅっと縮んだ。見抜かれた気がしたのに、嫌ではなかった。


「じゃあ俺は……当日、売り場の看板を手書きで作る。手作り市だし」

 晴矢が言うと、希が少し驚いた顔をした。

「動画じゃなくて?」

「動画も撮る。でも、まずは目の前。手書きって、手が嘘をつけない」

 自分で言いながら、晴矢は照れた。希はその照れを見逃さず、口元を緩めた。

「いいね。晴矢の字、勢いがある」


 褒め言葉が、今度は真正面から届いた。晴矢はカードを握りしめる。手のひらサイズの予定表が、急に頼もしく感じた。

 模造紙の「理想」は大きすぎて、誰の手にも収まらない。けれどカードの理想なら、四人の手をつなげた分だけ増やせる。


 晴矢はカードを胸ポケットに入れ、希に向かって言った。

「明日、これで回してみる。拍手も……自然に増やす」

「増やす前に、受け取って」

 希が手を差し出した。晴矢は握手ではなく、そっと手のひらを重ねた。温度が移る。

 言葉より先に、手が「大丈夫」を伝えた。


 店の外は夕焼けで、ガラスに四人の影が映っていた。影の手が、同じ高さで揺れていた。

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