第2話 演奏家の手

「あなた、だれ⁈」


突然かけられた大人の声に、美瑠はびくっとして、鍵盤の上で手を止めた。

私は、ゆっくりと振り向くと、知らない女の人が立っている。


「え……?」


「あっ、ま、真下さん……」

美瑠は慌てて立ち上がり、胸の前で手をぎゅっと組んだ。

「ぼ、ぼく……その……ごめんなさい」


言葉がうまく出てこない。

盲目の彼の視線は、床とピアノの間を行ったり来たりする。


「えっと……真下さんの、知り合いの人と……いっしょに、ピアノ……」


「知り合い?」

女――真下京子は、すっと目を細める。


美瑠の隣でピアノを弾いていた薫へ、鋭い視線が向けられた。


「……そういうことね」


しばらく考えるように黙ったあと、真下は口調を少しだけ和らげた。


「美瑠。ここでピアノを弾いていてちょうだい」


「私たちは、上でちょっとお話してくるから」


「え、いいの?」

ぱっと顔が明るくなる。

「なに弾いても?」


「ええ。今は、いいわよ」


「じゃあ……アニメの歌、弾いてもいい⁈」

弾む声で聞き返す。


「……いいわ」


「やったー!」


美瑠はすぐに椅子に座り直し、嬉しそうに鍵盤へ向き直った。


◆◆◆□


美瑠を残して、私たちは二階の一室へ入った。


「ここは、私専用の部屋よ」

真下は扉を閉め、腕を組む。

「さて……説明してもらえるかしら」


その視線は、鋭い。


「……私は、空き巣です」

隠しても無駄だと思い、正直に言った。

「部屋を物色していたら、あの子に声をかけられて……」


「咄嗟に、知り合いだと言った?」


「はい」


真下は短く息を吐いた。


「あなた、西野 薫ね。数年前、話題になり突然姿を消したピアノ演奏家」


「……ええ」

私は頷く。

「両親が亡くなって、多額の借金が残りました。最初は演奏で借金を返していたんです。でも……」


言葉が、喉につかえる。


「人前に立つと、怖くなって。指が、動かなくなりました」


「それで、空き巣?極端ね」

呆れたように言われても、否定はできない。


「……はい」


しばらく沈黙が落ちる。


「今日は、あの子の練習に付き合ってもらうわ」

真下は静かに言った。


「え……?」


「親御さんに頼まれたの」


「目が見えなくても、自分の力で生きられるように。プロにしてほしいって」


ふっと、視線を伏せる。

「……私、厳しすぎたのね。私の前だと、美瑠ちぢこまっちゃうのよ」


そのとき――

階下から、明るく、少し走るようなピアノの音が聞こえてきた。


耳に残る、聞き覚えのある旋律。

アニメの主題歌だ。

拍子は少し速く、ところどころ音も転ぶ。けれど――止まらない。


「……さっき、外から聞こえたの」

真下は、ぽつりと言った。

「私の時と違って、楽しそうで、のびのびしてた」


そして、こちらへ視線を戻す。


「とりあえず……二人で、あの子をプロの演奏家に育ててみない?」


「えっ……」

思わず、声が裏返る。

「わ、私で……いいんですか?」


真下は、少しだけ口元を緩めた。


「ええ」

「あなたの演奏。あなたの手が奏でる曲調――」

一拍置いて、はっきりと言う。

「演奏家として、今からでも十分に間に合うと思うわ」


胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。


――空き巣として責められても、警察に通報されても、何ひとつ文句は言えない。

それなのに。


こんな言葉を、こんなふうにもらえるなんて。


階下から、また軽やかな和音が跳ねる。

鍵盤を叩く音は、迷いがなく、まっすぐだ。


(……ああ)


胸の奥で、何かがほどけていく。


長い間、私はピアノから逃げていた。

人の視線から、期待から、自分自身から。


けれど――

あの子の音は、違う。

ただ、楽しくて、好きで弾いているだけだ。


(その隣に、いられるなら……)


気づけば、口が動いていた。


「……やらせて ください」


真下は、小さく頷いた。


その瞬間、階下から――

少し音を外しながらも、最後まで弾ききった演奏が、ぱっと終わる。


そして、弾むような声が、響いた。


「ねえ! ちゃんと、さいごまでひけたよ!」


その声を聞いた瞬間、私ははっきりと分かった。


――もう一度、ピアノの前に立ってみよう。

今度は、誰かと一緒に。


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泥棒の手 クースケ @kusuk

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